アート、教養、ポピュリズムとかとか

アート、それからその享受の前提となる教養、そしてポピュリズムというか、エリート主義/反エリート主義といった問題系について、ちょっとは原理的に考えてみないといけないなと思った。石原慎太郎の現代美術を巡る言いたい放題についてのLiberationの記事(の翻訳)*1、そして九谷さんのロックを巡るメモ*2を読んだのが直接のきっかけであるとはいえるのだが。
九谷さんのメモ(というよりも久谷さんがネタにしている南田さん)に対してコメントを差し挟めば、先ず(これも古くて新しい問題だが)フォーク・タームとテクニカル・タームというか、当事者視点と研究者(批評家)視点の関係について、もっと考えるべきだろうと思う。例えば、ロックの「アート」志向云々という場合、その「アート」という概念の意味(定義)について、研究者側が想定している「アート」とミュージシャンが想定している「アート」とファンが想定している「アート」の意味(定義)にそもそもズレがあるのではないか。例えば、X-JAPANのような〈ビジュアル系〉のファンというのは、私が幾人かのそういう人と接した印象では、少なくとも主観的には「アート」志向が強い。しかし、その「アート」の内実たるや、吃驚するほど保守的なものである。例えば、YOSHIKIは正統的なクラシックを継承しているからエラいとか。多分、そのような人たちの想定する「アート」(音楽)の世界には、サティもケージも武満もいないようだ。そういえば、ロックと「アート」ということで、「アート・ロック」という言葉が昔ありました。
石原慎太郎のケースも、やはり「アート」の意味(定義)が人によって様々ということと関係あるのだろう。ところで、この石原放言であるが、これに対するリアクションはどうなのだろうか。けっこう拍手喝采している人は多いのではないかと想像する*3。また、石原のナショナリズム的・人種主義的発言には眉を顰め、怒りさえ覚えている人も、密かには共感していたりして。ハイ・カルチャーや〈教養主義〉或いは〈エリート〉に対する左翼的な批判(これには例えばブルデューの言説なども含まれるわけだが)に距離を置くのは、それが〈庶民感情〉や〈国民感情〉に訴える右翼的な言説と共鳴してしまうことを危惧するからだ。というか、庶民とか大衆とか人民とかそういった類のものをsecurity baseとするような言説は気に食わないということなのだが。「俗情との結託」という大西巨人の言葉があったことを思い出した。そういえば、石原慎太郎竹内洋教養主義の没落』(中公新書)で、「教養主義」破壊のパイオニアとして描かれていなかったか。

序でに「アート」ということで、村上隆を巡る「あんとに庵」さんの記事*4をマークしておく。