間身体性は?

所謂児童ポルノ問題については後日メモしておかなければならないだろう。
さて、

http://d.hatena.ne.jp/rossmann/20080312/1205307444


これはmojimojiさんの論*1への応答として書かれたもの。
ここから、


実行に移された場合犯罪的でしかありえない欲望であっても、それを犯罪としてではなく肯定して生きることは可能である。人間にとっては、自分自身での創作や、創作物の消費、あるいは空想によっても性的主体として生きることができる。実際問題、性行為によって性欲が類型的に満足させられる状況になくとも(つまり定期的にセックスしているわけではないとか)、多くの人は合意をえないセックスを他人に強要したりしないのである。もてない人を強姦予備軍みたいにいう人もいるかもしれないが、そんなのはただの偏見である。小児性愛者についても、同じように考えない理由がよく分からない。こうした事実を考えるとき、モジモジさんが小児性愛者の性的自由の行使は、けっして児童の福祉と共存することはありえないかのようにいうことには、違和感をおぼえる。同時に、これを克服するべき手段として、児童を児童でなくするかと、小児性愛者が小児性愛の欲望を矯正するかしか挙げないことにも、違和感を感じる。児童に不利益を与えない限りでの様々な方法により、自己の性的側面を肯定することは可能だと思うし、それを含めて自己コントロールが欲望への抗いだけではないような状況を作ることも可能だと思う。
これを読んで、完全に反対するというわけではないが、少し違和感を持った。私は所謂ペドフィリアというのはその他のセクシュアリティのあり方とは同列に論じることができないのではないかと述べたことがある*2。勿論これはもっと詰めなければならないのだが、その根拠みたいなものは(私の理解する限り)セクシュアリティという出来事は相互主観的、さらにいえば間身体的な準位においてしか存立しえない出来事なのではないかということだ。だから、「自分自身での創作や、創作物の消費、あるいは空想」というのと間身体的な準位において生起する「性的自由の行使」というのとは同じ準位にあるものではないということになる。そもそも「自分自身での創作や、創作物の消費、あるいは空想」についてはどうぞご勝手に! と言うほかない。しかし、間身体的な準位における「性的自由の行使」についてはそうはいかないということになる。
ところで、自分の書いたものに関して感じるのは、「ペドフィリア」という言葉を使って、間身体的な準位で生起する行為と或る個人に賦与される属性とを、もしかして混同していたかなということだ。勿論、問題なのは前者なのであって、それによって個人をスティグマ化することではない。上の方も、もしその言わんとすることが「小児性愛」に存在論的地位(ontological status)を与えてスティグマ化するなということなら、賛同はできる。ただ、或る種のアイデンティティ・ポリティックスに対しては、それは根柢的な脅威をもたらすことだろう*3