ネガティヴは難しい

Via https://matsudama.hatenablog.com/entry/2022/08/29/213844

千金良航太郎「「いつになったら彼女できるんだ」友を傷つけた一言、記者の後悔」https://news.yahoo.co.jp/articles/b48cd381a3367b72a884e87b6539e583c17fff45


アセクシュアル」ということについては殆ど知らない。


近年、LGBTQ(性的少数者)への理解は進みつつあるが、相手に恋愛感情を抱かない「アロマンティック」、相手に性的な関心を持たない「アセクシュアル」といった恋愛・性的指向があることはあまり知られていない。1月には、当事者の男女が同居する姿を描いたNHKドラマ「恋せぬふたり」が放送されるなど、徐々にメディアで取り上げられる機会は増えている。ただ、電通ダイバーシティ・ラボによる2020年の調査では、回答者の約81%が、アロマンティック・アセクシュアルについて「聞いたこともなく、意味も知らない」と回答した。

 認知が進んでいないことから、当事者が恋愛や性行為に興味がないことを周囲に明かしても「いつか良い人に出会う」「まだ若いだけ」と理解されにくい。当事者自身も、そういった指向があることを知らず、「自分がおかしいのだろうか」と悩むことが多い。

ところで、「アセクシュアル」というアイデンティフィケーションは、異性愛や同性愛といったアイデンティフィケーションとは同じ順位で比較できるのだろうか、と疑問に思う。異性愛や同性愛というアイデンティフィケーションは実際に異性や同性を欲望したという事実(経験)をベースにしている。「アセクシュアル」の場合は、そのような欲望がこれまで生起しなかったということに基いている。あくまでもこれまでであって、これからどうなるのかはわからない。それは未来の事柄であるからだ。10分後に、或いは1年後、10年後に異性或いは同性に対する欲望が生起するかも知れないししないかも知れない。そんなことは、他人でも自分でもわからない。要するに、〈ある〉ことを証明するのは簡単だけど、〈ない〉ことを証明することは困難である。
とはいっても、セクシュアリティに関するアイデンティフィケーションや自己言明は論理的な明証性のためではなく、〈生きやすさ〉を獲得するために行うものだろう。当事者が「アセクシュアル」とアイデンティファイすることで生きやすくなるのなら、そうすればいいということだ。Puffy奥田民生)風にいえば、「そういうことにしておけば/これから先もまたいい感じ」。
さて、この記事に荒川和久という人がコメントしている;

ここに書かれた性的マイノリティの人達だけではなく、本当は「恋愛相手がほしいのにできない」という「不本意未恋者」は大勢存在します。常々「恋愛強者3割の法則」と言っていますが、恋愛を謳歌できるタイプはせいぜい3割程度。中間層の4割が何かのきっかけや運によって恋愛をする事はありますが、残りの3割は生涯一度も恋愛相手がいた事がない層です。
自ら恋愛しない「選択的非恋者」であればいいですが、この「不本意未恋者」にとって「相手いないイジリ」は相当なダメージになります。
恋愛していない事で不幸感を感じるのは女性よりも男性の方が多いという記事をたまたま今日ヤフー記事で出したところです。恋愛できない事で不幸を抱える人は「恋愛できなければ・結婚できなければ幸せになれない」という十字架を一生背負って生きていく事になります。そうした空気の圧力は当事者にとって心を傷つける刃になる事をご理解いただきたいと思います。
アセクシュアル」に引っかけて、〈非モテ〉或いはインセルを擁護しようとしているのだろうか(多分)。ところで、荒川のいう「恋愛をする」というのはどういうことを指しているのだろうか? 荒川が謂うところの「恋愛」には片思いは入っているのか? 或いは忍ぶ恋は?
「 恋愛できない事で不幸を抱える人は「恋愛できなければ・結婚できなければ幸せになれない」という十字架を一生背負って生きていく事になります」ということだけど、白石玄氏は恋愛というのは人格にとっては災難のようなものだという*1

恋の厄介なところは、引力が発生するところにある。相手の存在そのものに引力が働いて、あらゆる言動に絶えず意識を引っ張られてしまう。そうなると、精神的にまっすぐ立っていることができなくなる。まるで首輪をつけられたみたいに心がぐいぐい引っ張られ、自分の考えや気持ちを貫くのが難しくなる。相手のすることに違和感を覚えていても我慢してしまうし、ひどい場合だと、絶対に守らなければならない自分の尊厳すら手放そうとしてしまう。
大人になって初めて恋をしたぼくは、この引力にかなり苦しめられた。正直、恋をするまでは、恋愛で自分を見失う人のことを下に見ていたのだが、いざ自分が恋に落ちると、本当に自制心が働かなくなる。

あぁ、みんなは、こんなにも心が乱されるものに耐えていたのか。ぼくは、それまでバカにしていた人たちに心から頭を下げたくなった。そして同時に思ったのだ。この引力に苦しみながら毎日を生きている人は、みんな偉い。自信を奪われ、自分に価値を見いだせないまま、誰かを振り向かせようと努力し続けているのだから、これはもう、人として尊いと言ってもいい。

恋は、大抵、負け戦をしているようなものだ。人間関係に勝ち負けをつけるのはおかしいのかもしれないけれど、ぼくは自分が報われない恋をして以来、そう考えるようになったし、もっと言えば、恋愛で負けるのはちっとも悪いものじゃないと思うようになった。
もちろんつらいのは事実だし、今まさに恋をしている人たちからすれば、負けているのは最低な気分だろうが、じゃあ逆に、自分が勝っている恋愛とやらにどれだけの価値があるだろう?

よく、恋愛テクニックで、「こうすれば優位に立てる!」などと説いているものがあるけれど、個人的には、優位に立った時点で、それは恋愛ではないのではないかと思っている。

優位に立つということは、相手を支配しているということで、そんな「他人を一段下に置いて自分を愛させるような奴」は、人間的にしょうもないと言わざるをえない。

恋愛は負けて(相手を見上げて)なんぼだし、もし負けている意識がないのだとしたら、それはただの自己愛か、もしくは、もっとおだやかで対等な「お付き合い」と呼び方を改めるべきなんじゃないかという気がする。

*1:白岩玄「自信を奪われ、尊厳も手放しかけた……25歳で経験した苦く痛い“大人の恋”」http://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2018042575211.html Cited in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180430/1525111855