藝術、宗教、無名性

「あんとに庵」さんの「無名性」*1を読む。


私の中では宗教脳と芸術脳はかなり近いんだが、これは祈りのメンタリティが、芸術の創作における啓示に到る作業に近い。もっとも芸術には外部的戒律はない。外部的な神学もない。倫理など等の狭義もない。しかし核には「普遍」がある。この辺りはかなり似ている。もともと美は神の側にあると考えられていたわけだし当然だろう。宗教でいうなれば神秘神学的なメンタリティを要求される。
因みに、プロテスタントでは人は〈神の道具〉であり、神秘主義では人は〈神の器〉。カトリックではどうなのか。ただ、カトリックに於いては、神の栄光は感覚的にわかりやすい仕方で表現されなければならないと考えられていたので、世界、その中でも超越界とのインターフェイスたる教会は神の栄光を展示するギャラリーであると観念されていたとしても不思議ではない。イスラームの場合は、それが具象画ではなく抽象的なパターン=秩序として表現されるわけか。
また、ルネッサンス期に於いても、

概ねは無名であり、中世の絵画などはほとんど作者名が知られていないものも多い。教会内に残る壁画だけでなく、装飾写本の挿絵画家も無名である。後世に名を残すということはあまり重要視されておらず仕事が来ればいい的な感じだったんだろう。有名なボッテガ(工房)の親方は引く手数多である。名声が上がれば遠くの地からも依頼が来るわけで。しかし聖堂内における絵画はあくまでもその目的は「描かれた絵画を見せる」ということではなく、典礼に沿うものであり、祈りの為の道具である。それらには描いた画家の思想ではなく、あくまでも教会の宗教的生活の中に埋没するものである。教会は神を中心とした一つの宇宙を構成する場であり、個人個人の発露の場ではない。

絵画は美術館に移動することによって、その役割を変えた。画家は哲学者として、個人的な表現者として、振舞うことになる。それらは個々に知的刺激に満ちてはいるが、しかしかつての中世の抑圧された美に比すれば饒舌過ぎて草臥れるときもある。教会に本来あるべきものだった芸術が、美術館の中に切り取られてしまった光景は寂しい。それはあるべき姿を奪われた虜囚のようなものだ。しかしそれでも尚、その絵が語り描ける祈りを共に捧げようとするなにがしかを感じ取ることは出来る。

中世の宗教絵画にとどまらず、民俗藝術と呼ばれるものは概ね「無名」である。その〈作家性〉が析出されるのは、危機に瀕して、それこそ無形文化財として保護の対象となるときか、商業的な理由でブランド化されるときである。後者の場合、「無名」とはまた別の意味の〈匿名性〉という問題が生じる可能性があるわけだけれど。
ともかく、何故そうした「無名」のフォーク・アートに心惹かれるのか。たんにノスタルジーとかエクゾティズムということでは済まされない何かが関係していることだけはたしかなのだが。