「宗教改革」?

承前*1

深井智朗「プロテスタンティズムの倫理とボウリングの技巧」『思想』826、2017, pp.26-29


少し抜書き。


今年*2はルターの宗教改革から五百年目にあたる。だから「宗教改革とは何であったのか」、あるいは「宗教改革五百年を記念する意味は何であるのか」と問われる。一般的には、一五一七年一〇月三一日に修道士マルティン・ルターが、ヴィッテンベルク城の教会の入口に九五個条の提題を貼り出した時に宗教改革が始まり、腐敗したカトリックを批判したルターによってプロテスタンティズムが起こされ、プロテスタントはヨーロッパの近代化に寄与した、というような説明がなされている。
しかし一五一七年にルターがこの提題を教会の入口に張り出したと考える研究者はほとんどいない。子の提題は書簡とともに読まれるべき相手に郵送された。そして添付された提題はマインツヨハネス・グーテンベルク以後急速に発展した印刷技術によって、またたくまに複製が作成されヨーロッパ中に広まったと今日では考えられている。
さらに言えば、この出来事をきっかけにプロテスタントが誕生した、という説明も誤解を招きやすい。ルターは自らがプロテスタントだと言ったことはないし、プロテスタントという新しい宗派を立ち上げたと宣言したこともない。「宗教改革」という翻訳がよくない。ドイツ語ではReformationというが、reは「再び」、formationは「形成する」とか、「形を整える」という意味である。つまりルターが考えていたことは、新しい宗派の立ち上げではなく、制度疲労を起こしている教会の救済システムの修理や立て直しでであった。(p.27)

ルターも自分たちの主張や運動が民衆に正しく理解されず、むしろ政治化し、領主たちの政治的支配に利用されていることに気づいていた。だからこそルターは、聖書をドイツ語に翻訳し、ミサをドイツ語で行い、ドイツ語の讃美歌を作曲した。これらは従来すべてラテン語だった。ルターは自分たちの宗教的主張が民衆にも理解できるように、民衆の言葉であるドイツ語ですべてを執り行った。文字が読めなくても、朗読されれば、理解できる。聖書をドイツ語で朗読し、その内容をドイツ語で説明した。
それでも一般の民衆にはルターの改革の宗教的な意義が十分に伝わったとは思えない。そもそも何を改革したかったのか、何が変わったのか。おそらくルターが宗教の世界を大きく変えたということを一般の人々がはっきりと理解した出来事は、ルターの結婚であろう。ルター自身もアウグスティヌス会の修道士であったが、修道士が生涯独身であるという定めは誤りであると主張し、一五二五年にカタリーナ・フォン・ボラと結婚し、二人には六人の子どもが与えらえれた。子育てに追われる宗教改革者の姿を人々は目撃したのだ。その時人々は大きな変化を実感したのではないか。(pp.27-28)
深井氏は「ルターはそれまで結婚しない修道士たちが気づかなかったさまざまなことを経験することになった」と述べるが(p.28)、「結婚」というのは一般信者だけでなく、聖職者に対するインパクトが強かったのではないか。以前永田諒一『宗教改革の真実』を参照して言ったように、中世において聖職者は「生涯独身」という建前にも拘らず、公然と愛人を囲う高位聖職者も少なくなかったし、下位の聖職者でも、メイドを雇うという名目で女性と同居するということが横行していた。しかし、こうしたことは公認のことではなく、あくまでも〈後ろめたさ〉を伴うものだった。それが「宗教改革」によって、公認の、正々堂々としたことになったわけだ*3。そもそもカトリックにおいては、結婚は秘跡のひとつであり、自らの結婚が神の祝福から除外されていると感じることが相当に辛い経験であった(ある)筈だ。多分私たち異教徒にとって理解しづらいのは、基督教において「結婚」に賦与されている宗教的な意味なのだろう。日本ではよく〈家〉同士から〈個人〉同士への変化ということが言われ、この変化は日本国憲法の「両性の合意」*4という表現に表れているともいえるわけだが、たぶん家か個人かといってもそこには〈神〉が抜け落ちてるだろうと、クリスチャンなら突っ込みを入れるのではないか。
宗教改革の真実 (講談社現代新書)

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