最も怖いのは同胞であり隣人であるということ

関東大震災時に朝鮮人が虐殺されたことについて、kechack*1さんは「安全マキャベリズム」ということをいっている。「デマを流布した人には朝鮮人への憎悪があった可能性が高いが、それを信じて自警団を結成して虐殺に加担した人は、安全マキャベリズムに駆られ理性を失ったのであろう」。「 関東大震災に於いては、朝鮮人を殺すことで1%でも自分たちの安全が担保さると信じた人間が虐殺をしたのである」。
これについて思うのは、最大のリスク要素は「朝鮮人」というよりも〈日本人〉*2ではなかったかということだ。或いは、山本七平歿後もしつこく生き長らえている表現を使えば〈空気〉。虐殺に荷担しなければ、自分が「朝鮮人」ということになり、今度は自分が虐殺される側になってしまう。この恐怖の方が強かったのではないかと思う。そもそも日本人/朝鮮人を視覚的に区別する特徴があるわけではない*3。だからこそ、「じゅうさんえんごじゅっせん」という言葉が伝えられているわけだ。また、虐殺に荷担した〈日本人〉の多くは、直接朝鮮人を知らなかったということは想像できる。アイデンティティ、私たちが私たちであることは、私たちが彼らとは違うということによって存立している。その自/他の区別が揺らいでしまう。その時、私が私たちの内に留まるためには、〈彼ら〉を作りだして〈私たち〉を際立たせるしかない。群衆的な虐殺の端緒は、このようなアイデンティティの揺らぎ、私が私たちから放逐されてしまうのではないかという恐怖に求められる。ここで重要なことは、私を私たちから放逐するのは〈彼ら〉ではないということだ。〈私たち〉が私を放逐するのだ。ではどうすればいいのか。〈私たち〉に従って、〈彼ら〉を殺せということになる*4
関東大震災の場合は(上からの煽りはあったにせよ)多分に自然発生的だったといってよかろうと思う。しかし、考えてみれば、このアイデンティティの混乱の導入というのは、権力者が民衆のアイデンティティを管理・統制するに際して、常套手段ではある。スターリンの大粛清然り、マッカーシズム然り、文化大革命然りである。ただ、注意しなければいけないのは、一旦火がついてしまえば、如何なる権力者といえどもそのプロセスを自分に都合よくコントロールすることは不可能だということだ。とりわけ近代社会に於いては。民意には逆らえない。素晴らしき哉、民主主義*5
以上述べたことからすれば、虐殺の可能性は〈私たち〉の存立そのものに潜んでいる。とりわけ、酒井直樹いうところの「種的同一性」――「犬が同時に猫であることはできないように、人が同時に複数の国民・民族・人種であることはできないような自己規定」*6――が成立しているところにおいては。また、この「種的同一性」というのは「個人を分割不可能な実体と見る個人主義*7の前提でもある。「個人主義」という仕方で個人間において、国民国家という仕方で民族(国家)間において、「種的同一性」が世界を覆い、その建前によって存立する社会を近代社会というならば、虐殺の可能性というのは、私たち近代人の宿痾ともいえるものだ。だから重要なのは、「種的同一性」ではないようなアイデンティティの在り方を想像することだといえるわけだが、少し考えてみれば、「種的同一性」というのがフィクションでしかないことは直ぐにわかる。だからこそ、「種的同一性」を揺るがすような存在、例えば混血の人等々は、〈恥部〉として差別されるわけだし、上で書いた自他の区別が曖昧になる中での虐殺も、そこで賭けられているのは、実は「種的同一性」の維持なのである。
日本に限らず現代社会において問題になっていること、〈ジェンダー・フリー〉へのバッシングにしても、ホモフォビアにしても、ナショナリズムにしても、宗教的原理主義にしても、賭金は様々なレヴェルに於いて「種的同一性」にしがみつくのか、それとも別のアイデンティティの在り方を想像するのかということなのである。様々な「種的同一性」同士の争いに矮小化してはならないだろう。

偶々手許にあった三苫利幸「マックス・ヴェーバーと「ゼクテ」――「普遍主義」と「特殊主義」――」(『現代社会理論研究』10、pp.1-9)を捲ってみると、この近代人の宿痾を、ウェーバーが、既に(西洋)近代の端緒ともいえる宗教改革の動きの中に見抜いていたことに気づく。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kechack/20060307/p1

*2:当時、制度的には、「朝鮮人」も大日本帝国臣民であり、日本人/朝鮮人という対立は存立しえなかった。ギメで括ったのはそれ故である。

*3:金正日みたいな、あるいは正男みたいな日本人はそこら辺で幾らでも見つかる。数年前に、私たち夫婦と香港人の友人とで、有楽町のガード下で飲んでいたら、隣のテーブルにいた関西人が突然、私たちのところに来て、僑胞(キョッポ)の方ですかと声をかけてきたことがあった。東亜細亜における民族の区別なんてそんなものだ。

*4:問題は、これがエスカレートすると、肝心の〈私たち〉ががりがりに痩せ細っていくこと。

*5:ということで、どのような独裁国家もはたまた全体主義国家でさえも、民主主義であるとはいえる。

*6:但し、これは出口顯氏による要約。『臓器は「商品」か』、pp.144—145。

*7:ibid., pp.145.