パフォーマティヴな効果

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081213/p1


先ず「複数性」を巡って。
ハンナおばさんは、”Truth and Politics”の最後を”Conceptually, we may call truth what we cannot change; metaphorically, it is the ground on which we stand and the sky that stretches above us.”(p.259)と結んでいる。複数性はそのような意味における真実であるといえる。

Between Past and Future (Penguin Classics)

Between Past and Future (Penguin Classics)

アレントは先ず以て現象学者だったのであり、現象学的に思考すれば、このことは明らかであろう。結論から言えば、複数性は、私に対して世界が、世界内の存在者たちが私の主観性を超越した〈客観的〉な事実として現れてくるための条件なのである。世界は私に対して常にその部分しか自らを提示することはなく、つまり私は世界の全体を一望することができない。しかし、私は世界が客観的に存在することを自明な事実として確信している。何故か。私は今ノートPCに向かっている。私にはノートPCの正面しか見えない。しかし、私はノートPCには複数の、無数の現れ方があることを知っている。後ろから、横から、上から等々。そのような現実の、また可能な無数の現れ方、視線の存在を考えに入れることによって、ノートPCは(私の主観的な思い込みではなく)〈客観的〉な事実として私に現れているのだ。それと同様に、例えば南京大虐殺のような歴史的事実も、それが複数の視点から眺められ・語られることによって、〈客観的〉な事実として存立する。
さて、東浩紀の「ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)」*2という言葉について。
これは、

あとの東さんの「どんな醜悪な意見であっても耳を傾けろ」は原理論としては理解できる。やっぱり、南京大虐殺がなかったと断言するひとであっても、それを理由に投獄されたりしてはいけないと思う。だから「南京大虐殺がなかったと考えるなどとんでもない」とは言わない。
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20081207/1228655595
と言われている意味で、一応は正しいといえるだろう。しかし、現実に「南京大虐殺がなかった」という奴を逮捕しろとか殺せといっている奴はいないのだ。少なくとも「リベラル」ならば。また、そのような言説は既に「場所」を与えられているし、「耳を傾ける」までもなく、否応なく耳に入ってきている。ということは、この言説はパフォーマティヴな効果のない、その意味で無意味な言説ということになる。果たして、そうなのか。ここで、言い出しっぺの東自身が想定していないかも知れないパフォーマティヴな効果を考えてみるべきかも知れない。「声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである」という〈べき論〉的な発話から、〈歴史修正主義者〉が耳が傾けられず、場所が与えられていないという主観的事実を構築してしまう可能性。そのことは、陰謀理論*3と同様に〈弱者〉の言説である〈歴史修正主義〉にとって、自らの惨めさではなく、敵である〈邪悪な主体〉の不正、翻っては自らの〈正しさ〉の証拠だということになる。