土佐ナショナリズム?

http://d.hatena.ne.jp/sean97/20080530/p1


「その地元紙では地元出身の坂東女史の「やっちゃれ、やっちゃれ、高知県独立宣言」なる小説が週1で連載されています」ということだ。
ところで、県というのは〈想像の共同体〉たりうるのだろうか。ポストコロニアルな千葉県*1関係者としては、県というのが〈想像の共同体〉として機能するかどうかというのは甚だ怪しい。旧国制にしても、下総、上総、安房というふうに分かれていたわけだし、江戸時代に大きな藩によって一括して統治されたということもない。さらに、少なからぬ殖民者としての住民はたんに東京で家が買えなかったから千葉に来たのであって、そういう人たちに〈愛県心〉を期待するというのも難しい。県民アイデンティティが高揚する可能性としては東京とかで経験する差別的なスティグマを発条にするしかないか*2。長野県のように、「信濃国の歌」を覚えさせるといった愛県教育を徹底しているところもあるわけだが。
高知県(土佐)の場合、山内家によって一括的に統治されてきたので、〈想像の共同体〉としての高知県というのはより自然な仕方で構成されうる条件があるといえる。ただ、土佐の場合、関ヶ原の合戦が終わって、山内一豊が進駐してきて、地侍たちのレジスタンスがあって、さらにそれに対する虐殺があり、その基礎の上に土佐藩の支配体制が打ち立てられたということがある。そのトラウマというのはどうなっているのだろうか。エルネスト・ルナンは「国民」が存立するためには或る種の忘却が必要だといったが、山内一豊による虐殺は都合よく忘却されているのだろうか。