宮崎学/死刑/ライブドア

 宮崎学氏の文章を読む。


 「シンポジウム 「こうするべき!麻原裁判控訴審」 1月22日 日本教育会館」
 http://www.miyazakimanabu.com/lecture/000144.php
 http://www.miyazakimanabu.com/lecture/000145.php


 注目したところを抜き書きする;


感情を含めて「被害者の権利」の問題という事でよく言われるんですが、 仮に僕自身の死刑廃止論の根底にある考え方なんですが、例えば自分の家族が非常にひどい殺され方をする。 国家が被害者の代理でその犯人たる人間の命を奪う事によってその家族の気持ちが収まるか収まらないかという問題なんですね。 僕自身の問題でいいますと一切収まりません。自分に代わって国にその犯人を殺してもらうという事では僕の気持ちとしては収まらない。で、 いろんなところで「被害者の人権」を考えていらっしゃる方々がいて、その方々が 「自分の身内がひどい目にあったのだから断固として極刑に処すべきである」というような事を言われていて、根本にあるのは 「殺された自分の家族に対する愛情の発露である」というような事なのですが、 僕の事を言いますと自分の身内の被害者に対する愛情というものは決して国家に代理をしてもらって発露する事はない。

 僕はこういう風に考えています。

 「じゃあどうするんだ」と言われれば、「自分でヤル」というような事になろうかと思います。

 つまり先ほど申しました現代司法、裁判所の考え方の中で「法の下の平等」や 「疑わしきは罰せず」、「公権力の民事不介入」というような、 それまであったある種の規範ていうものは無くなっているわけですけども、同じ無くなるんであればですね、 自力更生を禁止した事もなくなるべきであろうと、僕はこういう風に考えています。 ですからはっきりさせておこうと思うんですけども、 僕の知り合いやあるいは僕の家族が誰かに殺されたとしても被害届けを書く気はない。自分で探して殺します。 それが僕自身の愛情のあり方だと僕は考えています。 だから僕が殺されても別に国家に対して僕を殺した奴を何とかしてくれというような事は絶対に考える事はありません。
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 また、「ライブドア」と「検察」或いは司法権力について。

最後にもうひとつ小泉政権が発足して佐藤優さんが書いたようないわゆる国策捜査というものが横行しました。 鈴木宗男さん、佐藤優さん、村上正邦さん、辻元清美さんなんかもそうです。つまり検察、 警察が小泉政権に敵対する者を国策的に逮捕していくという時期がありました。 これは先ほど少し出ました大阪高検三井環さんが指摘した検察のいわゆる調活費問題があり、 調活費問題が響いて福岡高検の人事問題に関してどうしても官邸の協力を検察としては得ざるを得ない。 そのために官邸に気に入ったような捜査をする事によって官邸の犬に成り下がる形でその危機を乗り切った。 同時にその時警察はその後発覚した北海道警問題等に表れるようにですね警察もスネに傷を持っていた。つまり国会で検察、 警察問題が議論される事を防ぐにはどうしても官邸の気に入るお仕事をして持ちつ持たれつの関係を作っていく必要があった。 ところが問題は去年の11月に官邸を中心とする小泉が圧勝するという事が起こる。 こうなってくると小泉チルドレンと呼ばれている烏合の衆の盛り上がりが検察にぶつかってくる可能性がある、これを感じたんだろう。 よって今までの小泉の下請け機関としてやってきた検察が、従来の東京地検特捜部というところは政治家よりも上のポジションにあるという、 従来のポジションに戻ろうとした。これがライブドアの捜査だったんだろうと思います。昔から昨年の9月11日の小泉の圧勝以降”MHK” という話がされました。 MHKというのは地検が狙う次のターゲットで

M=村上ファンド
H=堀江貴文
K=木村剛

 つまり小泉政権が改革路線を遂行していった過程で登場してきた人物の「どぶ掃除」 を一回しようと。 どぶ掃除をする事によって検察のポジションを下請けから上の立場に上げようというような事が判断された可能性が非常に高いと僕は見ていますね。 つまりこれが司法官僚の持つ問題意識だろうと思うんですね。常に自分がこの社会の中の一番中心にいて、 どのくらい大衆的な支持があるかも分からん者よりも、 いつでもそれらを何とでもコントロールできる位置に自らを置いておきたいというが実は司法官僚の問題意識の中にあるものであろうと、 僕はこういう風に思うわけでありまして、そういう点から先ほども大谷さんは何度も司法は良くなってもらえないかという事なんですが、 僕はもうそういう段階ではなくですね、司法は司法独自のムラの生き残り、つまり権益、 省益を守っていくための活動をその日常の中でやっていくという事を繰り返している。それはすべてにおいてそうだ。
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「ところが問題は去年の11月に官邸を中心とする小泉が圧勝するという事が起こる」は9月? すんなりと読めてしまったけれど、どうなんでしょ。

 〈死刑〉という制度についてだけれど、以前よりつらつらと考えていたことがある。〈死刑〉とは国家の名において人を殺すことだ。〈国家〉ということに注意しよう。直接的な下手人はたしかに政府職員たる刑務官である。しかし、殺す主体は刑務官でもなければ、その直接的な雇用者としての政府でもない。あくまでも〈国家〉なのである。この場合、〈国家〉とはゲゼルシャフトとしてのstateではなくて、ゲマインシャフトとしてのnationを意味するだろう。だから、「国家の名において」というよりも〈国民の名において〉という方が正確だろう。〈死刑〉に限らず、「国民の名において」ではない国家の作動(権力の行使)は(少なくとも建前では)無効である。これは何を意味するのだろうか。それは、私やあなたが、死刑に賛成だろうが反対だろうが、拍手喝采していようが遺憾なこととして嘆いていようが、(私やあなたが、その一部として参与する)〈私たちの名において〉死刑=殺人が行われるということだ。一人の囚人を絞首刑によって殺すためにどれほどの力*1が必要なのかは知らないが、そのうちの幾らかは確実に私やあなたの力(握力?)なのである。言葉を換えれば、死刑が行われる度に、それに賛成だろうが反対だろうが、私もあなたも死刑囚の首に手をかけている。ただ、抵抗も死刑囚の足掻きや藻掻きも感じないだけである。そのことをどれだけ意識しているのだろうか。それに対して、生きるに値しない悪党を〈私たちの名において〉、私たちの意志によって(それも私刑という仕方でなく、法を経由させて)抹殺することに私が参与しているのは誇らしいことだという反論もあり得るだろう。勿論、そういう人がいるであろうことは理解できる。角度を変えてみよう。死刑囚にだって、家族や友人がいるだろう。その人たちは(上の宮崎氏の表現を借りれば)「被害者の身内」という立場にある。その人たちは少なくても現在の法体制では(宮崎氏が主張するような)自力で報復する権利はないだろうが、嘆き悲しんだり、糾弾したりする権利はある。誰を糾弾するのか。それは勿論、私やあなたをだよ*2。そのような人たちに対して、処刑の正統性・正当性を説得すればいいということかもしれない。では、冤罪だったらどうなのか。「国民の名において」、誤って殺したことの責任を分担するのか。それとも、無能で抑圧的な警察や司法を、(自らが荷担したことを忘却しつつ)一緒になって糾弾するのか。どちらも嫌だというのが、私が〈死刑〉という制度に反対する理由のひとつではある。
 さて、これと似たような道徳的疑念を株式投資ということに対しても抱いていた。株式を所有すること、それは(極く僅かなシェアであれ)会社の所有者に名を連ねるということである。会社はいろいろと問題を起こす。世間に糾弾されて、広報担当者とか経営者とかが開き直ったり、土下座したりするわけだが、所有者としての株主の責任というのはどうなんだということである。経営者や従業員、或いは会社そのものが糾弾されることがあっても、株主の責任が問われるというのはあまり聞いたことがない。勿論、そういうことに敏感な人もいて、だからこそ、SRIという理念・実践も出てくるのだろう。しかし、何故こんなことをつらつらと書き出したかというと、「ライブドア」事件においては、株主は〈被害者〉扱いであり、つまり基本的には可哀想な人たちであり、責任といっても、(功利的な)判断を誤ったことの責任が(半ば揶揄的に)言及されるだけなのだ。「ライブドア」が悪事を働いたということになっている。勿論、「ライブドア」の最大の所有者は堀江なのだが、そうであっても、株主は株主=所有者に名を連ねている限りにおいて(幾分かは)〈悪事〉に荷担したということにならないか。株主は謝れ(誰に?)といっているのではない。そもそも「ライブドア」は全然悪くない可能性だってあるのだ。ただ、〈損をしました〉とか〈騙されました〉という応答しかないのは如何なものかと問いたいだけだ。
 再度デリダを模倣すれば、主体なるものは、有限会社的にしかありえない。つまり、SARL=Limited Inc.というわけだ。責任は有限なれど、常にresponsibilityは求められる。ただ、株式会社はsociete anonymeであるとすれば、〈匿名性の闇〉に沈み込むというのも株式会社的ではあるか。

*1:これは物理学的な意味での力でる。

*2:〈国民の名において〉死刑が遂行されるとしたら、その〈国民〉には死刑囚の家族、さらには死刑囚本人も含まれるのだ。つまり、〈死刑〉というのはその幾分かは自殺であるということになる。