この「独裁者」を殺すことはできないが

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081012/1223753840へのコメントに「「日本の独裁者である「世間様」は」と言ってますが、日本は民主主義国家なので、世間こそが独裁者なのは当然です」というのがあった。こういうのは正確には「民主主義」というよりも、暴民支配(ochlocracy/mob rule)というべきなのかも知れない。また、選挙などの制度としての「民主主義」が不足している体制の方が政治(国策)が「世間様」に影響される可能性は高いということも指摘しておかなければならないだろう。しかし、多数者支配としての「民主主義」にはそもそもこうした問題を孕んでいるというべきだろう。ポピュリズムの危険*1というのはその極限なのだろう。「民主主義」がベタで貫徹されてしまえば、多数ならざるマイノリティはひとたまりもない。さらに、文字通りの「独裁者」はサダム・フセインにしても金正日にしても〈地獄への遠島〉にすることによってその独裁を終わらせることが(少なくとも原理的には)可能であるが、「世間様」という「独裁者」を殺すことはできない。だからこそ、立憲主義憲法)によって人権を保障するということが意味を持ってくる*2憲法による人権の保障は民主主義のためというよりは、民主主義に抗して行われなければならないのだ。ちょうど市場経済において公的な規制やセイフティ・ネットが必要であるように、民主主義においても主権者*3=「独裁者」たる「世間様」には箍がはめられなければならないというわけだ*4
さて、上記のエントリーの本文だが、死刑になりたいから人を殺すという犯罪に対しては死刑制度は無力であり、それどころか逆機能的であるかも知れないということは、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060429/1146310325で言及した。また、殺人事件の遺族感情とか応報感情を考慮して死刑を肯定するというのは端的に公私混同であるといえるだろう*5。さらに問題なのは、死刑を肯定する人たちが(死刑に反対の人も往々にして)死刑は政府が行うものだと考えていることだ。しかし、国民国家において、特に「民主主義」的な国家においては、(少なくとも制度上は)政府は国民の手先として行っているにすぎない*6。上の「世間様」=国民は「独裁者」という話に引き付ければ、「世間様」というのは自分が独裁者であるという自覚のない、かなりこまった「独裁者」ということになる。さらに、これは近代社会における暴力の隠蔽ということと結びついている*7