「死刑制度のパラドックス」(メモ)

「死刑制度」については、以前例えばhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060127/1138329871http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060429/1146310325http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060501/1146495355http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061231/1167543391http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070828/1188277338とかでコメントしたことがある。
さて、mn_krという方の「死刑制度のパラドックスについて」というエントリーは興味深かった。


死刑が導入されることのメリット及び人々の賛意理由は、応報感情の解消(発散)、社会的規範の表出(「これは悪いことだ」)、一般的予防といった要素にまとめることができる。「人を殺した人は殺されるべきだ」という「公正」な懲罰感情もさることながら、社会的機能の観点からすれば秩序を守り次の殺人を予防するための見せしめにこそ死刑制度の存在意義がある。

だがそれにも関わらず/それゆえに、死刑制度はその目的を最終的に逸することになる。そのパラドックスとはいったいどのようなもので、またそれはどのように生じうるのか?

そのパラドックスを端的に表現すれば、私たちの社会のルールを破壊した者(重罪を犯した者)に死を与えるということ――すなわちその者の死をもって贖わせることは、人命よりも「価値のあるもの/崇高なもの」が存在するということを暗に示唆してしまうのではないかということになる。 死刑を執行することで明らかにされるのは、人命よりも大切なものがある――この場合は「秩序」や「規範」、或いは「正義」――ということであり、死刑は(一面においては)「人の命は最上の価値を持つものでは必ずしもない」ということを行為遂行的に指し示してしまう。

人の命を人の命と思わないような無慈悲な殺し方による残虐な殺人に留まらず、たとえば宗教的崇高を掲げたテロリズムもまた人命よりも偉大な価値を奉じるかたちで人命を塵とする。死刑を残置する中東イスラム圏と宗教的テロリズムとの関係性を弁証するにはなお多くの留保を必要とするだろうが、その相関性については頭の隅に留めておいてもよいだろうと思う。
http://d.hatena.ne.jp/mn_kr/20080425/1209087998

勿論、今引用した部分のすべてに賛成しているわけではない。 例えば、「死刑制度」の犯罪抑止効果ははたして実証されているものなのだろうか。しかし、ここで示された「パラドックス」は重要だろうと思う。さらにいえば、(以前にも述べたように)死刑制度自体が(これも逆説的であろうが)〈人命の大切さ〉という前提において存立している。その前提がなければ抑止効果云々という話もそもそも成り立たない。
序に(といっては失礼だが)http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080424/p1についてコメントすれば、「反省」ということを司法というシステムに期待することの妥当性が問われなければならないだろう。勿論、身体(脳)が機能していなければ「反省」はできない。「反省」を可能にするためには死刑を止めなければならないという主張は理解可能だし、共感する。しかし、「反省」が(公的に)遂行される場が「司法」システムであっていいのだろうか。〈内面〉への法の立ち入り禁止というのは自由主義の原則であろうが、この原則との齟齬はないだろうか。取敢えず、そういう感想を持った。