「た」について

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20051225/1135512526で、「私の、或いは誰か他者の語りによって、(例えば日本語の場合だと)終助詞「た」というマーカーが加えられることによって、その体験=出来事は〈済んだこと〉になる」と書いた。
 普通、日本語の〈時制〉は、


  過去
  非過去


の2つだとされている。因みに、〈未来〉はない*1。肯定形では母音uで終わる〈非過去形〉によって、〈現在〉も〈未来〉も表現される。或いは、推測のための「だろう」/「でしょう」を借用することもある。
 ところで、「た」であるが、動詞の連用形に「た」をつけると、〈過去形〉になることは誰でも知っている。例えば、「する」に対して「した」。しかし、「た」の意味は、〈過去〉を表すマーカーということに還元できるのだろうか。それとも、〈過去〉もその一部として含む本質が別にあるのだろうか。それを考えるために格好の素材は、「た」を命令形で使う用法である。


 [そこを]退け、退け!


というのと、


  退いた、退いた!


とは、どのような差異があるのか。France DHORNE &小林康夫『日本語の森を歩いて フランス語から見た日本語学』(講談社現代新書)では、


一般には命令は、命令を発する人がいて、それを受ける人がいる。受ける人は、ある意味では命令する人に従属しているわけですが、しかしそれでもまだ「否」と言う可能性を持っています。命令には従わないこともできます。命令される人は、自分の主体性を確保しています。
 ところが「退いた、退いた」の場合は、形から言えば、「た」の働きのせいで「退かない」という可能性ははじめから完全に排除されています。「退く」ということしか考えられないのです。背くことのできない命令ですから、相手は、主体としてすら認められていないということになります(p.168)。
と述べられている。著者たちは、「た」の特性を「排他的断定性」と呼んでいる(p.167)。曰く、

(略)出来事が概念としてだけあるときは、それは、起こる可能性(肯定)と起きない可能性(否定)のふたつの可能性を備えているわけですが、「た」が付くときには、すでにそのどちらかが現実のものとして選ばれている。もう一方の可能性は排除されてしまっているのです(pp.166-167)。
つまり、「た」という終助詞は、既に選択が為されてしまったということ、新たな〈選択の不可能性〉を表すマーカーであることになる。
 とすると、〈過去〉の過去たる所以は、その出来事がたんに〈過ぎ去ってしまった〉ということではなく、それが事実として確定し、〈起こらない〉という可能性を選択することが既に不可能であるということになる。そうすると、自己を「た」で語ること、それによって、出来事は〈済んだこと〉になるばかりでなく、その真理性へのコミットメントを要請されることになる。つまり、その出来事が取り消し不可能な事実であることを引き受けることが要請されるのである。ここに、国際的な歴史論争を含む〈過去〉を巡る両義性の根があるといえる。一方では、済んだことだから蒸し返すなという。しかし、「た」を使うことによって、出来事の取り消し不能な事実性にコミットメントがなされるわけだが、その事実性そのものは、他者が事実性と認めてくれることに依存しており、当然他者からの、そんなのは事実ではないというカウンター=クレイムに開かれているわけだ。さらに、〈事実〉である以上、その事実性は如何なる当事者の主観的なコミットメントも超越しており、如何なる当事者もその事実性がもたらす帰結を引き受けなければならないということになる。こんなことになるんだったら、コミットメントはやめ、ということは不可能なのである。
 ところで、「た」であるが、


 腹減った!


とか


  疲れた!


という使い方がある。この場合、空腹とか疲労という出来事が過去の出来事であるわけではない。それはまさに現在の出来事にほかならない。それも持続する現在ではなくて、〈まさに今〉である*2。では、何故「た」なのか。Dhorne&小林夫妻は、この場合の「た」は「運動や行為のプロセスに『入る』こと」を表しているという(p.162)。つまり、「腹減った」は、空腹という状態が開始される瞬間だということになる*3。ただ、この「た」と過去というか選択不可能性を表す「た」とどういう関係にあるのかについては説明がない。さてさて。

*1:因みに、Dhorne&小林『日本語の森を歩いて フランス語から見た日本語学』では、

時間を現在、過去、未来と分けることは自然に見えますが、世界中の言語を観察すると、日本語のように未来を表すための特別な形態を持たない言語はけっして珍しくありません。むしろ、特別な「未来」時制を持っている言語のほうが少ないといえるくらいです。印欧語族のなかでもそのような特別な形態を持っていない言語があります。たとえば英語の「I shall go」や「I will go」という言い方は未来の表現ということになっていますが、実際は、「shall」や「will」は、時制ではなく、義務や欲望といったモダリティを表すマーカーです(p.159)。
と述べられている。

*2:持続する場合、「腹が減っている」とか「疲れている」という筈だ。

*3:そういえば、中国語では、「我餓了」とか「我累了」という。欧米人の同学たちは非常に不審な顔をしていたが、私は日本語でも、「腹減った」とか「疲れた」っていうじゃんとあまり驚かなかった。