ウッディ・アレン/『ディアスポラ紀行』/『夕凪の街 桜の国』その

 8月4日早朝、BSでウッディ・アレン監督『ギター弾きの恋(Sweet and Lowdown)』を観る。
 ショーン・ペン演ずる〈天才ギタリスト 〉エメット・レイと2人の女、つまりハッティ(サマンサ・モートン)とブランシュ(ユマ・サーマン)との関係を主軸に物語が進んでいくのだけれど、ウッディ・アレン自身を含む数人の〈証人〉による〈証言〉が挿入され、実在のミュージシャンの生涯についての〈証人〉による〈証言〉に基づいた再現ドラマという様相を呈している*1。〈証人〉の中には、ジャズ批評家のナット・ヘントフもいて、エメット・レイの実在についての信憑性は高まるという仕掛けになっている。最後まで、実在の人物だと信じちゃった人もいるのではないか。エンディングのクレディットで、彼らがそれぞれ"himself"を演じていたということは明らかになるのだが。
 さて、このエメットというのがどうしようもない男で、ギターは巧いのだけれど、傲慢で、呑んだくれで、経済感覚やビジネス感覚もなく、おまけに薄情者。何かといえば、すぐに"I am an artist."だ。ショーン・ペンは(後の『ミスティック・リヴァー』でもそうだけれど)こういうキャラを演ずるのはとにかく巧い。一応、子どもの時に父親から虐待されたという弁明を自らしているのだが、溝鼠を拳銃で撃ち殺すこととか線路近くに行って汽車を眺めることという〈趣味〉にしても、掘り下げれば色々と面白いかも知れないのだが、とにかく〈愛着(attachment)〉というか、愛着によって他者との距離が狂ってしまうことをことのほか怖れているキャラといえる。これに対して、サマンサ・モートンは口が利けない女。それは受動性を表しているのだけれど、言葉による距離を置いてのコミュニケーションが不可能であるということでもある(距離/密着という対立)。ユマ・サーマンは作家志望の女性で、エメットに近づき・エメットを落としたのも、そもそも本を書くネタを求めてのこと*2。ブランシュがクラブの用心棒とできてしまって、ハッティに復縁を迫るが、ハッティは既に結婚して、子どもまで作っていたというのが落ちになる。その後、エメットの消息はぶっつりと途絶えてしまった。


 8月4日、徐京植ディアスポラ紀行』(岩波新書)を読了する。
 美術・音楽論と〈在日朝鮮人2世〉としての著者自身のバイオグラフィ及び近代における「ディアスポラ*3一般についての省察(それは「ディアスポラ」を産み出した近代の帝国主義・殖民地主義への省察・告発へと繋がるだろう)が複雑に絡み合ったものといえるだろう。


 固定され安定しているように見える対象も、それを見る側が不安定に動いていれば別の見え方をする。マジョリティたちが固定的で安定的と思い込んでいる事物や観念が、実際には流動的であり不安定なものであるということが、マイノリティの目からは見える。
 以下の文章は、私という一人のディアスポラが、ロンドン、ザルツブルク、カッセル、光州など各地を旅しながら、それぞれの場所で触れた社会的事象と芸術作品を手がかりに、現代におけるディアスポラ的な生の由来と意義を探ろうとする試みである。ディアスポラという存在のありようがすぐれて近代の歴史的所産であるとすれば、この試みはディアスポラからの眼差しで「近代」を見つめ直すこと、そして「近代以降」の人間の可能性を探ることであるといえよう(p.3)。
 この引用文からは、本書の展開は解放=開放的であることが予想される。しかしそうではない。勿論、殖民地主義の〈傷の深さ〉ということを考えなければならないのだが、それだけではない。私は著者が何か根本的な思い違いをしているのではないかと思ったのである。

 私自身もそうだが、在日朝鮮人の大部分は日本で生まれたため日本語を母語として育つ。つまり在日朝鮮人は日本のマジョリティからみれば同じ母語をもつエスニック・マイノリティ(少数民族)であり、本国(韓国または北朝鮮)から見れば、同民族でありながら母語を異にする言語マイノリティということになる。植民地被支配者の末裔でありながら、旧植民地宗主国に生まれたため、支配者の国語を自らの母語とするという皮肉な運命を与えられたのである(p.8)。
 たしかにこれは深刻な事実だろう。問題なのは著者が抱いている前提である。「日本で生まれたため日本語を母語として育つ」ということを、著者は自明な前提として使用している。〈マジョリティ〉としての日本人から見ればそうだろう。著者は〈マイノリティ〉でありながら、このことを〈マジョリティ〉として共有している。さらに、これは〈〜で生まれたため〜語を母語として育つ〉というより一般的な命題を自明な前提としているということだ。はたしてそうだろうか。著者は「母語」と「母国語」を区別している(p.6ff.)。それは正しいと思う。「母語」は〈属人的〉で、「母国語」は〈属地的〉であるということ。そうだとすると、「日本で生まれたため日本語を母語として育つ」ということは自明な前提ではなくなる。著者の「母語」が日本語だということは、「日本で生まれたため」ではなく、著者の人生の初期に最初に〈言語の世界〉に参入したとき、(多分は父母であろう)社会化のエージェントが著者に日本語で語りかけたからにほかならない。勿論、父母が自分の息子が将来、〈日本語が支配的言語である社会〉で生き延びることを慮って、日本語で社会化したということは言えるかも知れない。また、そこから日本社会における同調圧力の過剰さを告発することもできよう。しかし、それは事実の水準であって、一般的真理の水準ではない。ここで、著者は、たんに統計学的な多数でしかないもの、或いは(それを盾に取った)規範的な強制でしかないものを、自明な前提と思い違いをしてしまっているということになる。さらにいえば、〈マジョリティ〉の属性を「固定的で安定的」なものとして、それとは知らずに構築してしまっているのだ。或いは、著者はネーション(国家=国民)一般に取り憑かれてしまっているともいえる。
 別様に表現する。著者は、レヴィ=ストロースいうところの「「生真」な社会」の水準を視野から落としてしまっているのである。著者は「日本語」が「母語」であるという。正確に言えば、〈国語〉としての「日本語」というのは、文法学者による体系化や規範化、それに基づいたフォーマルな教育ということを抜きには存立し得ない。つまり、〈国語〉としての「日本語」はそもそも学校制度とか文部科学省、とどのつまりは日本国という国民国家を背負った言語なのである。著者が採用する区別では、「母語」ではなく「母国語」の水準に位置する。それに対して、「母語」は(どのような社会においても)「母国語」の外において、さらには「母国語」以前に習得される言語である。また、「「生真」な社会」の水準において(主として〈まねぶ〉という仕方で)習得される言語である。それは、日本語だとか朝鮮語だとか英語といったフォーマル化された、国民国家の言葉には収まることのない余剰若しくは不足を抱えている筈なのである。それは究極的には(他者との相互行為の痕跡としての「経験のストック」としてではあるが)私という身体−精神的な存在へと還元される筈であり、差し当たっては、地域とか階級といった社会的ロケーションが刻印された特定の訛り或いは方言として現象する筈だ。決して、それは抽象的な「日本語」ではない。「母語」は(というよりも現実に話され・書かれる言語は常に/既にそうだと思うのだが)「母国語」以前に留まるとともに、複数の〈国語〉を横断した仕方で、つまりクレオール的な仕方で現象する可能性を秘めている。興味深いことに、著者はこのクレオールという言語や文化の在り方に対して、否定的な(少なくても肯定的ではない)感情を持っているようなのである。例えば、在日朝鮮人の死者祭祀を語って、「日本という異国で死を迎えた一世たちの墓は、日本式と朝鮮式、仏教式と儒教式が無秩序に混交した、在日式としか呼びようのないものである」(p.49)という。たしかに、それは「日本」或いは「朝鮮」から見た場合*4、「無秩序」というかちぐはぐでどうしようもないものかもしれない。ただ、そこには、手持ちの、或いは手に入る限りでの文化的リソースを素材とした何らかのクリエイティヴィティが見出せる筈なのだ。また、「一九三六年、朝鮮慶尚南道の威安で生まれた」李禹煥について、「読書人の家系だったらしく、彼の家庭では、子どもたちは三、四歳から古典的な漢詩や書画を教え込まれたという」(p.118)と述べて、

 私は二〇〇三年、ソウルで開かれた彼の大回顧展を見たが、そこには彼が愛蔵しインスピレーションの源泉としてきたさまざまな芸術品も資料として陳列されていた。その陳列の末尾に、典型的な朝鮮王朝時代の文人画があるのを見たとき、「ああ、これこそが自分にはないものだ」と感じた。これが、李禹煥にあって、私や文承根にないものなのである。
 李禹煥朝鮮語母語とし、「朝鮮文化」の素養も豊かな一世である。日本生まれで日本語を母語とし、「朝鮮文化」についての基礎的素養すらないばかりか、望みもしないままに「日本文化」を身に染みこませてしまったのが私や文承根のような在日朝鮮人二世である(pp.118-119)。
と書いている。ここでも、自らも有するクレオール性はネガティヴな評価しか与えられていない。
 ところで、著者がいう「朝鮮文化」に対応した「日本文化」の「基礎的素養」のある日本人なんてどれだけいるのだろうか。古典文化からの疎外は(著者も示唆しているように)例えば「読書人の家系」かどうかという階級の問題であるとともに、「ディアスポラ」であろうがなかろうが、現代人が引き受けなければならない問題なのである。


 8月5日早朝、BSでウッディ・アレン監督『スコルピオンの恋まじない(The Curse of the Jade Scorpion)』を観る。3夜連続のウッディ・アレン
 感想はといえば、ともかく愉しかったということに尽きる。John Patterson氏
ウッディ・アレン衰えたりと述べている。また、A.O. Scott氏によれば、ここにあるのは攻めというよりは守りの姿勢ということになる。しかし、そういうことは今回全く気にはならなかったのだ。あんないい加減な催眠術で人はあんな簡単にマインド・コントロールされてしまうのかとか(このことをドグマティックに肯定しない限り、この映画を愉しむことはできないだろう)、何故(元祖〈パリス・ヒルトン〉みたいな)シャーリーズ・ヘロンがウッディ・アレンにめろめろになるのだという不条理も、一切気にしないということ。また、『おいしい生活』のように後ろめたさを同時に感じさせることなく、素朴に笑うことができる。
 ウッディ・アレンはニューヨーク・マンハッタンの保険会社の調査員。保険調査員としては有能だが、それは独自の勘と独自の人脈(ホームレスや犯罪業界)によっている。他方、ヘレン・ハントはキャリア・ウーマンとして、そうした不合理・不透明な部分を容赦なくリストラすることによって会社の経営近代化を目指す。その一方で、社長(ダン・エイクロイド)の愛人でもあり、妻との離婚を迫っている*5。当然のことながら、2人は犬猿の仲で、顔を合わすたびに人格攻撃合戦。そして、2人とも手品師の催眠術によって無意識のうちに宝石泥棒をしてしまう。とうとうウッディ・アレンが警察に逮捕されたり、ヘレン・ハントダン・エイクロイドの痴話喧嘩があったりして、最後には罪も晴れて、ヘレン・ハントへの愛の告白も成就して、ハッピー・エンドということになる。意識のレヴェルでは犬猿の仲でも、無意識のレヴェルでは惹かれ合っていたというのが落ち。
 ところで、この映画について、A.O. Scott氏は、美術や映像も含めて、

''The Curse of the Jade Scorpion,'' Woody Allen's latest small-time movie featuring big-time movie stars, is set in 1940, and its sense of period details -- the fedoras and highball glasses, the cigarette lighters and plump, upholstered furniture -- is impressively meticulous. Santo Loquasto, Mr. Allen's longtime production designer, has put together a series of camera-ready interiors, which the cinematographer, Zhao Fei, photographs as if through a filter made of butterscotch syrup. The film is a ready-made high-end collectible, a charming trifle that flatters the good taste of everyone involved: the cast, the audience and, not least, the writer-director.
と評している。
 また、アレン演ずるC. W. ブリッグズのキャラについて、Philip French氏は、

Allen's character, while always remaining the neurotic Woody, is a combination of Spencer Tracy sparring with Katharine Hepburn (a partnership that began with Woman of the Year); Edward G. Robinson as the ace claims inspector in Wilder's Double Indemnity; the Bob Hope involved with criminals in My Favourite Blonde and My Favourite Brunette. Explicitly, the device of the scorpion pendant used for hypnosis comes from Road to Rio.
と述べている。
 さらに、uchi-aさん

『スコルピオンの恋まじない』はカップルにおすすめです。
しかもちょっと落ち着いたカップルに。
小声で、
斉藤和義いいよね。」
ぐらいなカップル。

「超EXILEよくない!?」
とかならば、『アルマゲドン』でも見た方がいいです。

例えばですからね。

内容はちょっと強引な展開ですが、
終わり方も彼の作品には珍しく、すっきりできる感じがするので、
比較的どんな方にも受け入れられやすいんではないでしょうか。

ほとんどのウッディ・アレン映画は、ストーリー展開がスローな感じで、
バックで流れるジャズに乗って、無理なくゆったり見ることができます。
逆に言えば、なんかギスギスした感じがなく、
迫力とか、最後のエンディングの終わり方とか、「ここだ」って言うポイントもないので、
見る人が見た時にはちょっと物足りなさを感じてしまうかもしれません。
まぁそういう方は、『アルマゲドン』でも見ててください。

という文も取り敢えず貼り付けておこう。
 ともかく、映画を観て、思い切り泣くとか怒るとか感激するとかしたい人にはお薦めはできないということである。


 8月5日、こうの史代夕凪の街 桜の国』(双葉社、2004)を買い、読んでみた。
 昨年から、本屋の店頭で、パステル・カラーの表紙に惹かれてはいた。今回改めて実際に読んでみて、敢えて〈美しい本〉と言ってしまいたい。
 広島の原爆をサヴァイヴした平野皆実、そしてその弟の石川旭、その娘(皆実からみれば姪にあたる)七波、その弟の凪生の1955年から2004年までの物語。皆実は(多分)〈内部被爆〉のために夭折してしまうが、その生をリレーするかたちで、七波や凪生は生まれ、1980年代を、また21世紀を生きる。今、「リレー」という言葉を使ったが、彼女らは生を受け取ると同時に、〈重荷〉も受け取っていた。皆実にとっては、1945年8月6日の出来事は過去として過ぎ去ってはくれず、常に現在に居座ったままだ。だから、広島の街の風景も二重になって現れる。皆実を現在から追い立てるのは、身体の内部に入り込んだ放射能だけではなく、現在に居座るあの過去なのである。その過去というのは例えば、

七日には霞姉ちゃんと会えた

死体を平気でまたいで歩くようになっていた
時々踏んづけて灼けた皮膚がむけて滑った
地面が熱かった靴底が溶けてへばりついた
わたしは
腐っていないおばさんを冷静に選んで
下駄を盗んで履く人間になっていた(p.24)

というもの。

しあわせだと思うたび
美しいと思うたび
愛しかった都市のすべてを
人のすべてを思い出し
すべて失った日に
引きずり戻される
おまえの住む世界は
ここではないと
誰かの声がする(p.25)
 そのような現在=過去において、〈自己〉は次のように捉えられる;

わかっているのは「死ねばいい」と
誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ
そしていちばん怖いのは
あれ以来
本当にそう思われても仕方のない
人間に自分がなってしまったことに
自分で時々
気づいてしまう
ことだ(p.16)
 さて、皆実の生をリレーした七波らは皆実のようなはっきりとした(まさに現在から生を引き剥がそうとするような)絶望があるわけではない。何しろ、1945年8月6日を経験してはいないのだから。根柢的な不安ということだろうか。また、差別という外からの視線も彼女らを〈重荷〉に繋ぎ止める。特に、「桜の国(二)」は、そのような〈重荷〉を内奥に抑圧して封印してしまうのではなく、また解離してしまうのでもなく、改めて選び直す物語なのである。
 ところで、Hisatoさんという方が『夕凪の街 桜の国』について書かれている。読めば、この方は広島市に育った方。この漫画をすごく切実に受け止めていらっしゃるのが伝わってくるし、広島に育った人ならではの回想も興味深い。


 8月8日、小菅信子『戦後和解 日本は〈過去〉から解き放たれるのか』(中公新書)を読了する。
 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050801では「要注目」と書いたが、実際に精読してみると、勿論読むべき本なのだが、それほど過大に期待してはいけない本なのだと思った。帯がよろしくない。「日中和解は可能なのか」という文字が赤地の帯にでかでかと踊っている。しかし、「日中和解」という問題はこの本の中心的な論題にはなっておらず、そこでの議論も説得力の強いものではない。だから、帯に反応して買った人にはがっかりした人も多かったのではないか。本書の中心は第3章で論じられた日本と英国の「戦後和解」を巡っての議論だろう。これに比べると、終章で論じられる「日中和解」問題は寧ろ〈付け足し〉でしかないような印象さえ受ける。
 また、そもそも〈日英〉と〈日中〉は簡単に比較可能なのだろうか。本書の叙述を読む限り、どうもそうではないようだ。日英のわだかまりは「泰緬鉄道建設」に象徴されるような日本軍による捕虜虐待に端を発するものであり、英国における〈反日〉は元々当事者である元捕虜たちが自ら嘗めた経験を語る中で構築されたものである*6。〈反日運動〉の中心も当事者たちであり、英国の一般的世論はそれに同調若しくは連帯しているにすぎない。それに対して、中国の〈反日運動〉の中心は、かつての日本軍の侵略行為の直接の被害者ではなく、被害を直接経験したことのない若い層である。寧ろ〈愛国〉のダシとして〈反日〉があるといってよい*7。また、それにも拘わらず、(これは著者もはっきりと言及していないようだが)英国の当事者が軍人つまり戦闘要員であるのに対して*8、中国の当事者の多くは非戦闘要員つまり民間人であるということを忘れてはならない。
 さて、1980年代以降、アメリカ及びカナダにおける日系人の強制収容や強制労働に対する個人補償を契機として、戦後和解の問題は国家vs.国家の〈ボス交〉的レヴェルから個人vs.国家というレヴェルに転換してきたといってよい。著者も言うように、欧米人(英国、英連邦諸国、阿蘭陀など)元捕虜たちによる「対日補償請求運動」もこうした流れに沿ったものである(p.103ff.)。これはエリートの間で(〈スケープ・ゴート〉の設定も含めて)取り決めた〈戦後〉の枠組がそのままでは通用しなくなったということである。さらに、中国を初めとしたアジア諸国から噴出した問題は、「東京裁判」では裁かれなかった〈犯罪〉に関わっている。「東京裁判」というのは寧ろ重大な〈犯罪〉が裁かれなかったことが問題なのだ。それは原爆投下などの勝者=連合国側の残虐行為が裁かれなかっただけではない。まず、「東京裁判は、一九二八年から四五年を対象としながら、植民地主義や植民地支配を不問にし、日本の戦争を侵略として裁くというアンバランスなものとなった」(p.69)ということだ。それは殖民地宗主国が裁判の判事席に座っていたからであり、「当時の価値観では、とりわけ欧米諸国のあいだでは、植民地主義は「犯罪」とみなされていなかった」(p.68)からである。また、「南京大虐殺」は大きく取り上げられたが、

 他方、今日とくに中国が問題視する日本軍の細菌戦や化学戦、「七三一部隊」は、実験データなどをアメリカ軍に引き渡すことで訴追の対象から免れた。また、東京裁判の中国代表検察官の向哲濬は国民政府から派遣されており、共産党の勢力下にあった華北でとくに展開された戦争犯罪、すなわち「三光作戦」(焼光、殺光、搶光〈奪いつくす〉)や中国人強制連行も訴追の対象とはされなかった(p.171)。
勿論〈従軍慰安婦〉問題も裁かれていない。このように、「日中間の問題は、東京裁判では、必ずしもそれにふさわしい取り扱われ方はされなかった」(ibid.)*9
 ところで、著者は『信濃毎日新聞』が2002年9月に実施した「日中世論調査」を引用している(p.204)。この中で、「日本メディア全般」が「反中国的」かどうか、或いは「中国メディア全般」が「反日本的」かどうかという質問がある。これって、意味があるのかねぇ。そもそも「日本メディア」に接している中国人、「中国メディア」に接している日本人がどれだけいるのだろうか。先ず、それぞれの国のメディアへの接触状況を訊ねて、それとのクロスという仕方で示さなければそれほど意味はなく、たんに既存の偏見やステレオタイプを〈やっぱりそうだね〉と確認して終わりということになるのではないかと思うのだが、如何だろうか。


 8月8日、kd lang Hymns of the 49th Parallelを買う。kdが同国人であるニール・ヤングジョニ・ミッチェルレナード・コーエンブルース・コバーンロン・セクスミス、ジェイン・シベリーの作品をカヴァーしたもの*10
 私としてのお薦めは、ニール・ヤングの"Helpless"とジョニ・ミッチェルの"A Case of You"なのだが、実は(カヴァーであるとはいえ)ジェイン・シベリーの曲を超久しぶりに聴けたのが嬉しい。
 
 Will Hodgkinson氏のレヴュー
 http://www.guardian.co.uk/print/0,3858,5091629-111426,00.html
 Caroline Sullivanさんのレヴュー
 http://www.guardian.co.uk/print/0,3858,5022874-110760,00.html
 
 

*1:http://www.cinema-today.net/0206/30p.htmlはこうしたドキュメンタリー擬きの設定に批判的な意見。

*2:http://www.fsinet.or.jp/~s.seimei/oku%20no%20monjyudou/02%20gita-hikino%20koi%20.htmでは、「いかにもいい女であるユマ サーマンに惹かれて、ちびを捨てて結婚してしまう」と書かれている。「ちび」とはサマンサ・モートンのことなのだが、ブランシュと出逢ったときは、既にハッティを捨ててしまった後だったので、これは誤り。

*3:「近代の奴隷貿易、植民地支配、地域紛争や世界戦争、市場経済グローバリズムなど、何らかの外的な理由によって、多くの場合暴力的に、自らが本来属していた共同体から離散することを余儀なくされた人々、およびその末裔」(p.2)

*4:ここでいう「日本」とか「朝鮮」とかいうものは、前にも記したように、たんなる統計学的多数や規範的強制が「日本」それ自体、「朝鮮」それ自体として錯覚されたものに過ぎないだろう。

*5:つい最近、『ブルース・ブラザーズ』の第1作を再び観たばかりだから、ついつい〈お前も出世したもんだな!〉といいたくなる。

*6:「泰緬鉄道についての手記や回想記はその多くがいわゆる私家本であり、自費出版である。彼らは。自分の「奴隷」体験を、身銭を切って、本というかたちの記念碑にして残そうとしてきたのだ」(p.116)。著者によれば、こうした本は1946年以来現在まで数百冊に上るという。

*7:著者は「日中和解」問題を論じた最終章では、「中国」という主語を多用している。

*8:軍人であるとはいっても、戦闘能力を喪失し、捕虜となった時点で、その人間性は恢復されるといえる。

*9:「その一方で、(略)主要対日交戦国三ヵ国のうち、日本国民を一部の〈加害者〉と〈被害者〉あるいは〈無実の者〉とに線引きをし、正義と不正義のバランスの上に自国とのあいだの関係を修復し刷新するという第二次世界大戦の戦後平和構築パターンを、今日、もっとも熱心に踏襲し、その前提となる東京裁判の意義をもっとも高く評価するのは中華人民共和国である」(pp.171-172)。

*10:但し、"Simple"はセルフ・カヴァー。