- 作者: 島薗進
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/01/24
- メディア: 単行本
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著者は、「スピリチュアリティ(霊性)」について、
と暫定的に定義し、その上で、本書の構成について、
スピリチュアリティ(霊性)とは、個々人が聖なるものを経験したり、聖なるものとの関わりを生きたりすること、また人間のそのような働きを指す。それはまた、個々人の生活においていのちの原動力と感じられたり、生きる力の源泉と感じられたりするような経験と能力を指している。従来は特定宗教の枠内で一定の規範にのっとって経験され、生きられるものであったスピリチュアリティが、特定宗教の枠を超え、個々人が自由に探究し、身につけることができるようなものと考えられるようになってきた。世界の先進国では、今や新しいタイプのスピリチュアリティが広範に形成されてきていると思われる。(「はじめに」、p.v)
と述べられている。
本書は新しいスピリチュアリティにいくつかの方向から光をあてるため、三部構成とした。第I部は、主に日本を念頭において新しいスピリチュアリティの興隆の全体像を描き出す試みである。一九六〇年代から七〇年代にかけての時期を、この同行の起点と見なして、そこで起こった精神史の転換を明らかにするとともに、概念枠組みを明確化することを目指している。ここでは、スピリチュアリティと並んで「いのち」という語にも注意している。
第II部では、一九九〇年代に行った個人インタビューによる調査の成果を用いて、この時期の日本の一般市民の宗教やスピリチュアリティがどのような広がりをもっていたかを描き出そうとしている。(略)
第III部は、新しいスピリチュアリティと陰に陽に関わりをもちながら、現代の知的文化や娯楽文化において人気を高めてきた西洋のグノーシス主義の伝統に目を向けている。「起承転結」でいえば、「転」にあたるこの第III部では、新霊性文化がもつ広がりの一端を、グノーシス主義の伝統と照らし合わせることによって理解しようと試みている。思想史的には、新しいスピリチュアリティが悪やニヒリズムの問題とどう関わっているかを問おうとするものである。
終章では、現代社会の構造に対する社会学的な理解を踏まえ、新しいスピリチュアリティがどのように位置づけられるかを問うている。近代化が進み、第二の近代とかポストモダンといわれる社会形態への変化が進み、さらに深まりつつある。この過程で宗教は単に衰退していくわけではない。むしろ新たに宗教的なものの役割が増大しているように見えるが、そのことと「新霊性文化とその周辺」がどう関わっているのかを考察している。(pp.vii-viii)
先ず、目次を書き出しておく;
本書を通読して感じるのは、ここで採り上げられる事例の幅の広さと、(基本的には共感的なスタンスであるにも拘わらず)その記述のバランスが取れているということだろう。「市場経済の全面的拡充を受け入れ、自由競争の中での成功をひたすら礼賛するようなスピリチュアリティから、抑圧的な構造的暴力からの自己解放を求めるようなスピリチュアリティまで、新霊性文化は切れ目なくつながっている」(p.vi)と著者は先ず書いているが、徒に絶賛や貶価に走るのではなく、その解放的な側面・抑圧的な側面を見逃すことなく、またグローバル化や新自由主義との関係にも目配りをし、読んだ者がスピリチュアリティと一般に呼ばれているものの社会的な意味や倫理的レリヴァンスを考えるための手引きとなっている。また、採り上げられる事例の広範さ・多様さは、スピリチュアリティと呼ばれるものの多義性とともに、それが現代の私たちの生活のかなり多くの側面に関わっていると言うことを表しているだろう。例えば、第I部で「スピリチュアリティ」に関わる人として採り上げられているのは、山尾三省(p.12ff.)、船井幸雄(p.15ff.)、柏木哲夫(p.19ff.)、田中美津(p.23ff.)、江原啓之(pp.3-34)、アルフォンソ・デーケン(p.35)鎌田東二と津村喬(pp.43-45)、本田哲郎(pp.76-79)といった人々である。
I 新霊性文化をどうとらえるか
第一章 スピリチュアリティの興隆
第二章 ニューエイジか新霊性か
第三章 新霊性文化と宗教伝統
II 生きる力の源泉を求めて
第一章 スピリチュアリティと「生きる力の源泉」
第二章 教団的宗教の枠の中で
第三章 「宗教」を超えて
第四章 漂泊
第五章 根を下ろして生きる
第六章 祈り・死者・道
第七章 自己実現・自己解放と超越
第八章 全体の見取り図
付録 「現代日本人の生き方」調査について
III グノーシス主義と新霊性文化
第一章 グノーシスは神秘思想か
第二章 グノーシスと現代の物語
第三章 新霊性文化とグノーシス主義
第四章 グノーシス主義と精神史の現在
終章 社会の個人化と個人の宗教化――ポストモダン(第二の近代)における再聖化――
あとがき
参考文献
索引
さて、第III部「グノーシス主義と新霊性文化」では、「グノーシス主義」と現代のスピリチュアリティ文化との関わりが考察されている。これは(著者は言及していないが)西洋のエゾテリズム文化の現代的な現れについての研究を提案したEdward Tyriakianの”Toward the sociology of esoteric culture”(American journal of sociology, 78, 3, 1972)を承けたものといえるかも知れない。ここでは、「グノーシス主義」の様々な特性の中から、「孤独な個人が自ら自覚し変容して高次の存在に近づいていくこと」と「この世の集団や組織による束縛をきらい自由な精神的探求による向上を求めていくこと」という二点に焦点が絞られ(p.209)、また「グノーシス主義」における「救済の約束とニヒリズムの背中合わせの共存という逆説的な事態」(p.222)も指摘され、桜井亜美の小説『意のセント・ワールド』(及び宮台真司によるその読解)、『14 fourteen』、『ヴァーミリオン』、また庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』を題材に、これらが「グノーシス主義」の現代的な現れであることが語られていく。他方、「グノーシス主義」と「新しいスピリチュアリティ」の一部である米国の「ニューエイジ」が比較され、これらの間には「悪」の実在性を巡って鋭角的な対立が見られることが指摘され(p.250ff.)、「古代のグノーシス主義において現世離脱の傾向が強かったのに対し、現代の新霊性文化では現世内での福祉と安心に目が向きがち」(p.264)であるとされる。
終章において、著者は、「死にゆく者のケア」、「セルフヘルプ運動」、「障害受容」を採り上げて、
という。著者によれば、「スピリチュアリティの興隆」は伝統的な宗教やコスモロジー或いは共同体、さらにはそれらとは対立する近代合理主義の信憑性や拘束性の低下を背景にしている。それとグローバル化され・ネオリベラル化された資本主義;
かつて宗教的文化が提供していた死生のケアや喪の仕事(フロイト)や悲しみの癒しの文化装置が欠落し、それにかわってホスピスやビハーラや「死生学」や「生と死を考える会」のような企てが起こってくる。また、かつては宗教的な背景をもち価値観のシステムによって納得され、一定の充足感を与える役割として受容されていた、女性であることや描写であることや障害者であることが、今では差別による抑圧や厳しい孤立として経験されるようになり、そこから精神的に癒されながら立ち上がっていくためにセルフヘルプの共同性が形成されている。
しかし、精神世界やニューエイジの一部に見られるような千年王国的・ユートピア的なスピリチュアリティは、現代社会の悪や困難を正面から受けとめていないように感じられる。また、死生観やセルフヘルプに関わるスピリチュアリティは、いずれも限られた範囲の危機や困難と立ち向かうためのものであり、広くあらゆる立場の人びとに語りかけようとsるものではない。(略)(pp.296-297)
著者が「グノーシス主義」的なものの大衆化について語っている箇所も引用しておこう;
(前略)新霊性文化が個人主義的な考え方を尊んで共同体の形成を好まず、商業主義や消費主義に適合的であることは確かである。また、新霊性文化の中にはグローバルな資本主義と市場経済の拡張にポジティブに呼応し、現代世界の社会悪を軽視して未来をオプティミスティックに展望するような側面が多々見られるのも事実である。(p.298)
この社会的・倫理的インプリケーションについて、著者の判断は両義的である;
実存主義やニヒリズムが唱えられたかつての先進社会では、まずは少数の知識層やエリートたちが「選ばれた者」の孤立と絶望をかこっていた。だが、二〇世紀の末に至って、少なくとも日本においては、膨大な数の大衆文化享受者の間に「異邦のもの」の誇りと自暴自棄が広まるようになった。九〇年代の日本で、グノーシス主義との類縁性を感じさせる表象や物語がかくも魅惑的に立ち現れたのは、このような事情によるものだろう。(pp.237-238)
なお、「社会の個人化」が「個人の宗教化」をもたらし、さらにそれが「社会の再聖化」をもたらすということへの賛否については保留しておきたい。
二〇世紀末以後の世界や日本で、もしグノーシス主義的なものが復興(ないし流入発展)しているとすれば、それは「コスモスの失墜」や「悪」の実在の認知に関わるものだろう。だが、もしそれが「自己霊性」の枠内にとどまるとすれば、それは新しい順応主義のイデオロギーとの嫌疑を免れない。もしそれが自己の内の罪や苦しみのみに焦点をあてることに倦み、世界の苦しみや他者の痛みに、そして対話や共感や責任へと開かれていくとすれば、それは異質なものの共存を模索する、多元的な現代世界の新たな精神的価値を暗示するものになるかもしれない。
その時、「関係の解体」に具体的に対処しながら、複雑な社会の中で関係の網の目を養い、育てていこうとする、新たな社会構想も展望に入ってくることだろう。多元性や他者性の日常化という事態の自覚と「悪」の感受とが、適切な関係を見出しえたとき、そして他者へと開かれた「救済」や「スピリチュアリティ」(霊性)理念の具体化が可能になったとき、そこに現代のグノーシス主義が自らを超えていく糸口が開けるのだろう。それは不死鳥たらんとする自己が、次世代への希望とともにその死を受け入れることができるような宗教性やスピリチュアリティを学び取ることをも意味するものである。(p.274)