終末論/教育勅語その他

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050716で一緒に紹介するつもりだったけれど、(当方の)時間的な都合で紹介できなかったJohn Gray"Look out for the enemy within"を紹介することにしたい*1
 先ず、Gray氏は先ず、


The 'war on terror' suggests terrorism is a global phenomenon but, actually, it remains almost entirely national or regional in its scope and goals. The Tamil Tigers do not operate worldwide any more than the IRA or Eta. Only al-Qaeda has a genuinely global reach, and it has been strengthened by American policies that have turned Iraq into a terrorist training ground.
と指摘する。また、

No longer the semi-centralised organisation it was before the destruction of the Taliban regime in Afghanistan, al-Qaeda has mutated into a brand name that covers an amorphous network of groups that are linked together mainly by their adherence to an apocalyptic version of Islamist ideology. This network is the vehicle of a movement that has more in common with Aum Shinrikyo, the Japanese cult whose members planted sarin nerve gas on the Tokyo underground, than it does with any version of traditional Islam.
ここで、「オウム真理教」が引き合いに出さているが、つまりは多くのイスラーム主義者のように第三世界に関係するテロリズムではなく、先進産業社会自生のテロリズムだということだろう。オウムは、屡々「終末論的イデオロギー」を伴った先進産業社会自生のテロリズムの一例なのである。その他に例として挙げられているのは、オクラホマアメリ連邦政府ビルを爆破した右翼ミリシアである。
 「終末論的イデオロギー」というのは特に珍しいものではない;

Apocalyptic beliefs of this kind recur in the most scientifically advanced societies and they have a long history. In late medieval times, they animated Christian millenarian movements, and the belief that an old world was ending and a new one beginning has been used as a justification of terror at least since the Jacobins, who, more than any other group, can take credit for originating the idea that society can be regenerated through violence.
さらに、19世紀のアナーキズム、20世紀のナチズムや「共産主義」。そして、"Common to all these movements was the belief that the old world was ending and a new one coming into being, whose arrival could be hastened by the systematic use of violence."なのだと。だから、

In terms of its apocalyptic mindset, al-Qaeda is not unique, nor is it peculiarly Islamic. It is the most recent expression of a tradition of terrorism which has deep roots in Western religious beliefs and in modern revolutionary politics. The idea that violence can be used to remake the world has a powerful appeal, and if al-Qaeda is distinctive, it is in the ruthlessness with which it implements this belief.
ということになる。但し、

Unlike most other terrorist movements, it seeks deliberately to maximise civilian casualties,and, as we saw in Madrid, its members are ready to embrace death in order to avoid capture. It is a potent mix and al-Qaeda seems to be attracting a new generation of recruits who have grown up in some of the world's richest countries.
 Gray氏によれば、テロリズムは最早「外部からやってくる」脅威などではなく、「我々が生活する社会の一部」になっている。また、原因を除去することによってテロリズムには対処できるというリベラルとネオコンに共通する信念に対しても懐疑的である。
 たしかに鋭い指摘だと思う。さらに言えば、或る種の連中にとっては、「終末論」は魅力的なのだろう。しかし、「終末論」もまた〈口実〉でしかないという可能性もある。その点では、9/11の後、アメリカでキレた高校生が9/11を模倣して、セスナ機でビルに突っ込んだという事件が起こったことは示唆的である。或いは、例のコロンバイン高校の事件とか。また、宅間守は(多分教養不足のためだろうけど)自らの所業をイデオロギー的或いは宗教的に正統化するということはしなかったが、〈全てをチャラにするぞ!〉的な心性を共有していたことは間違いない。
 終末論は直線的時間を前提としている。私たちは既にアーカイックな回帰的時間を取り戻すことは不可能だろう*2。しかし、終末論の信憑性(plausibility)が強まるというのは回避したい。私見によれば、特にグローバル社会の新自由主義的再編という最近のトレンドは終末論の信憑性を弱めることはない。そうはいっても、終末論を脱構築する言説的実践が求められていることも事実なのだ*3


 さて、7月15日は、安藤優一郎『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)と山住正己『教育勅語』(朝日新聞社、1980)を読了した。
 安藤優一郎『観光都市江戸の誕生』は、観光史や(江戸という)都市史という観点からだけでなく、宗教史としても愉しめる1冊である。特に寺社の「ご開帳」を扱った第3章、成田山の江戸進出を扱った第4章、諸大名の屋敷神を扱った第5章。何れも面白いのだが、これはご時世ということなのか、それとも著者が政治史・経済史専攻だということに起因するのか、例えば80年代にこの手の本が出たら、もっと〈祝祭論〉の色彩が濃かった筈だ。本書には、マーケティング論的な語彙が多用されているけれど、やはり〈バブル崩壊〉以降、〈祝祭論〉の信憑性は低下しているのだな。
 山住正己『教育勅語』の方はもう20年以上前に出た本であるが、勿論現在でも読む価値を有し続けている(逆にそれは増大しているのでは?)。特に興味深かったのは、「教育勅語」に対する第2次的・3次的な諸言説への言及である。「教育勅語」を一読すればわかるように、それは抽象的であり空虚であって、さらに固有の矛盾も孕んでいたので、それから直接(勅語を暗唱させる以外の)教育的実践を不可能である。だからこそ、種種の「衍義」と呼ばれる解釈本が出されたわけだが、そこには「教育勅語」の〈具体化〉の名の下、例えば〈自由民権〉的コンテンツを忍び込ませることも可能になる(p.109ff.)。しかしながら、(私見によれば)こうした戦略において、他方「教育勅語」が踏み越えられぬ限界となってしまうことも事実だろう。実際、特に昭和になってからは、許される解釈の幅が極度に狭められてしまう*4。また、後半部の第2次世界大戦後の「教育勅語」の命運の叙述は本書のもう一つのハイライトだろう。本書を読む価値が現在増えているかも知れないといったのは、戦後の「教育基本法」というのが理念的にも制度的にも明確に「教育勅語」の否定であり、周知のように現在その「教育基本法」が危機に瀕しているからである*5
 著者は「教育勅語」英訳の問題に言及しているが(p.187)、これとは別に「教育勅語」を〈翻訳論〉の素材として考えることは興味深いことだ。そもそも「教育勅語」は日本語ではない漢文(中国語)なのだ。また、石川忠司のいう日本語の〈ペラさ〉問題を考える素材としても興味深いのではないか。私見によれば、日本語の〈ペラさ〉というのは客観的な事実であるよりも寧ろ自虐的な妄想なのであって、主観的(間主観的)にはリアルである日本語の〈ペラさ〉を糊塗するために漢文(中国語)が欲望され、それによって日本語の〈ペラさ〉が事後的に確証されるとともに、そのように導入された漢文(中国語)のフェイク感或いは浮いた感じがさらに空虚感を強めるという悪循環が生じているのではないだろうか*6


 16日は現代社会理論研究会。次回、その報告をしたい。

*1:John Gray氏は所謂〈左派〉ではない。その基本的な政治的スタンスは、http://www.findarticles.com/p/articles/mi_m0FQP/is_4722_134/ai_n9487577を読めば明らかである。

*2:エリアーデ的にいえば、終末論は直線的時間に残った回帰的時間の最後の痕跡だとも言えるのだろう。

*3:私が使っているATOKは最初「週末論」と脱構築的に変換した。

*4:著者は〈教育〉という現場に限定している故なのか、例えば〈ひとのみち教団〉の事例などには言及していない。

*5:p.243に引用された羽仁五郎が1948年に述べたという「たとえ完全なる真理を述べていようともそれが君主の命令によって強制されたというところに大きな間違いがあった」という発言はすごく根柢的な意義を有していると思う。私は羽仁五郎を思想家としては全く評価していなかったのだが。

*6:現在では、漢文(中国語)の代わりに寧ろ英語が欲望されていると言えるだろう。