『我が名はエリザベス』

 体感する湿気、すなわちベトベト感からも梅雨が近づいてくるのがひしひしと感じられる。沖縄は既に梅雨入りしているというが、今週中には(北海道を除く)全国で、梅雨入りということになるのではないだろうか。
 6月5日。夕方、銀座の「三愛」のところにある「カフェ・ドトール」で妻と待ち合わせて、有楽町のガード下にゆき、酒を飲む。ガード下で、牛の煮込みや焼き鳥をつつきながら、ホッピーを飲むという〈日本文化〉を堪能。


 入江曜子『我が名はエリザベス 満洲国皇帝の妻の生涯』(筑摩書房、1989)を読了する。〈ラスト・エンペラー〉愛新覚羅溥儀の「皇后」であった婉容の生涯を描く歴史小説。小説は婉容の一人称によって語られる。
 勿論、小説に基づいて歴史を語るという愚は避けなければならないが、物語の前提になる限りでの史実に言及すれば、婉容は1906年天津に生まれた。


 亡清のとき父・栄源は、まだ官途についたばかりであったためか、清室にさして愛着もなく、復辟運動などにも何の興味も示さなかった。むしろ旧王族や遺臣たちの多い北京をはなれて天津のフランス租界に住み、中国人よりは外国人、ことに率直なアメリカの銀行家や実業家たちと交際するのを好んだ。
 わたくしもまた、その父によって中国の枠の外で育てられた。英語とピアノを習い、テニスをたのしむ、いわゆる租界そだちのハイカラな少女たちの一人であり、清朝廃帝・溥儀も、遠く古めかしい時代の伝説のように、わたくしの頭の一隅に忘れtられていたのである(pp.11-12)。
そのような婉容が清室に輿入れするのだが、それは1922年、既に中華民国の時代であり、「統治すべき領土と人民と軍隊を欠いた「幻の王国」が、民主国家となった北京の中央に、社会から隔離されたまま、依然として存在しつづけた」(p.11)という有様だったのである。「千人を超える宦官、三百人の女官と宮女」つきで。上で「皇后」を括弧に括ったのはそれ故である。つまり、フィクショナルな帝国であり、フィクショナルな皇帝なのだが、この後もこの〈フィクショナル〉という属性は溥儀の生涯を語る上で重要な鍵言葉となるだろう。その最もシンボリックなエピソードは、〈宮廷〉における「軍楽隊ごっこ」。あるとき英語教師ジョンストンが〈宮廷〉に「軍楽隊を招いて演奏させた」ら、「廃帝はたちまち明快なマーチのメロディと、颯爽とした白手袋の指揮官に魅せられてしまった」(p..80)。

レコードにあわせて廃帝は銀の長い杖をふり、わたくしたちはそれぞれの楽器にみたてた花瓶やクッションをかかえて演奏遊びにふけった。はじめはむやみに手を動かし、首を振るだけだった団員たちは、やがてそれぞれのパートが聴きわけられるようになると、当然のなりゆきで本当のバンドを編成してみたいと思うようになった。そのお相手としてリチャード、アントニー、チャールズなどの名前をもつ清室ゆかりの少年たちを代表して、あるとき溥傑が提言した。
「謹んでウィリアムが申し上げます。我々がほんものの音の出る楽器を習い、演奏することになったら、さらに愉快であろうと思います」
 廃帝の眉が、気短かに寄せられるのを、わたくしは見た。
「レコードがあるではないか。練習となると面倒だし、誰もがこのように演奏できるものでもないだろう。我々はただ楽しければそれでよいではないか」(pp.80-81)
 さて、小説では、廃帝・溥儀を初めとする清室の人々、女官や宦官たち、さらには謀略を巡らす日本人たち、ジョンストンらの〈宮廷〉出入りの西洋人の言動や振る舞いが、婉容=エリザベスの視点から描かれてゆく。これらの人々は、エリザベスにとっては決して共感の対象とはならない。エリザベスがわずかに心を開いているかに見えるのは、英国人女性ユージニアと、清朝皇族に生まれながら、ジェンダーと国籍を越境して、日本人男性として生きた川島芳子=金璧輝ぐらいであろうか。
 最後、満洲国は崩壊し、「中共軍」に捕らえられ、朝鮮との国境地帯である図〓*1にて、息絶える。意識が朦朧とする中での最後の語りは、

 この秋が来て四十一歳……ついに夫も持たなかった、子も持たなかった、この世に残すものは何もなかった……そしていま、すべての束縛から解き放たれたわたくしの名は、エリザベス……。
 川が、ゆっくりとわたくしのなかにあふれた(p.396)。
 生命が消滅してゆく最後の瞬間において、彼女が自らを同定する名前は、中国人(満洲族)としての「婉容」ではなく、天津のフランス租界での幼女時代に由来するであろう「エリザベス」だった。彼女にとっては、清朝も中国も、無論日本や満洲国も、参入して自らの実存を支えるにたる現実ではあり得ず、たんなる〈フィクション〉でしかなかった。勿論、天津のフランス租界というのも、列強・帝国主義の介入の産物であり、それ自体が中国の内部における〈ヴァーチュアルな西洋〉という、中華民国における清朝満洲国と変わらないフィクションであったということは言えるかも知れない。しかし、「エリザベス」という名に象徴される抽象的な〈西洋〉が、ただただ〈外部〉を指し示すということにおいて、〈ここ〉への違和感を抱えた彼女の実存を支え続けたのである。「〈ここ〉への違和感」という一点において、エリザベスの生は(少なくとも私たちにとっては)普遍性を獲得するのである。それは次のようなエピソードからも推測可能なのではないか。婉容が輿入れしたとき、「淑妃」という側妃が同時に入内した。彼女は「わたくしにとって側妃にあげられたことは身にあまる光栄です。父をなくし伯父の家で肩身のせまい暮らしをしていたのに、こんな立派な宮殿に住み、大勢の女官にかしずかれ、美しい宝石や絹を身につけて、毎日何不自由なく暮らせるなんて、ここは桃源郷のようです」(p.65)と語る、婉容=エリザベスとは対極的な人である。しかし、彼女はある日、「御苑の鹿を哀れむ」と題し、「むしろ生きて尾を泥中に曳くも、死して骨となり貴となることを願わず」という『荘子』の一節を引用した書き置きを残して、突然失踪してしまう(pp.179-180)。「淑妃はほんとうに中国という広い江湖のなか、四億を超えるといわれる人々のなかにまぎれ去ってしまったのである」(p.182)。


小説からは外れるが、私たちは未だに〈満洲国〉の影の下にいるといっても過言ではない。戦後の日本(特にその象徴天皇制)は或る意味で満洲国の反復であり続けているわけだ。或いは、戦後日本の開発主義的行政。長野県知事になる前の田中康夫氏は神戸のことを「日本の平壌」と呼んだそうだが、1949年から69年まで神戸市長を務めた原口忠次郎は、もともと満洲国の首都・新京で都市計画や河川改修を手掛けていた。原口は安価に土地を買収し、インフラ整備によって地価を上昇させ、それを売却若しくは貸し付けることによって公共部門が収益を挙げるという「公共でデベロッパー方式」を生み出したが、その原型は満洲国、満鉄初代総裁である後藤新平の都市計画にある(松原隆一郎『失われた景観』、PHP新書、2002、pp.65-66)。あの酒鬼薔薇を生み出したのは満洲国であるといったら、暴論過ぎるだろうか。また、日本だけではなく、韓国でも朴正熙開発独裁政権を担ったのは、満洲軍官学校一期生を中心とした「満洲人脈」であり、その経済計画も満洲国の経済計画をモデルとしたものであった(『姜尚中にきいてみた!』、pp.273-275)。


 『SIGHT』24号。
 特集は「1975年、新しい英雄達の時代が始まった」。表紙はブルース・スプリングスティーン
 もう一つの特集として、「反日を検証する」。毛里和子藤原帰一へのインタヴュー。
 

*1:men。にんべん+門。