平野啓一郎『私とは何か』

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

平野啓一郎*1『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を読了。


まえがき


第1章 「本当の自分」はどこにあるか
第2章 分人とは何か
第3章 自分と他者を見つめ直す
第4章 愛すること・死ぬこと
第5章 分断を超えて


あとがき
補記 「個人」の歴史

最近〈自己〉論について幾度か言及したのだが*2、本書の主張は「たった一つの「本当の自分」など存在しない」、「対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である」ということである(p.7)。そこで導入されるのは不可分なるもの=「個人(individual)」ならぬ可分的なもの=「分人(dividual)」という言葉である。それを基礎に、より生き易い生が提案され、倫理的な問題(例えば何故人を殺してはいけないのか)に対する新たな根拠付けが試みられる。

「個人(individual)」という言葉の語源は、「分けられない」という意味だと冒頭で書いた。本書では(略)「分人(dividual)」という新しい単位を導入する。否定の接頭辞inを取ってしまい、人間を「分けられる」存在と見なすのである。
分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。
分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。(ibid.)

分人のネットワークには、中心が存在しない。なぜか? 分人は、自分で勝手に生み出す人格ではなく、常に、環境や対人関係の中で形成されるからだ。私たちの生きている世界に、唯一絶対の場所がないように、分人も、一人一人の人間が独自の構成比率で抱えている。そして、そのスイッチングは、中央の司令塔が意識的に行っているのではなく、相手次第でオートマチックになされている。街中で、友達にバッタリ出会して、「おお!」と声を上げる時、私たちは、無意識にその人との分人になる。「本当の自分」が、慌てて意識的に、仮面をかぶったり、キャラを演じたりするわけではない。感情を隅々までコントロールすることなど不可能である。(p.69)
幾つか感想。
先ず、私の存在様態、つまり私の実践モードと思考(反省)モード、或いはオブジェクト・レヴェルとメタ・レヴェルというかマンデインな主観性と超越論的主観性の区別がネグレクトされているが、これは如何なものか。「分人」が「分人」として構成されること、「分人」が私の一部として認定されるのは、俗に超越論的主観性と呼ばれる、私自身に対しても(対しては)匿名的な能作によるのでは?
著者は、「分人」は「最初の段階」で、「不特定多数の人とコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人」としての「社会的な分人」として形成される、と述べている(p.71)。しかし、このことは不可分なるものとしての「個人」の確立を前提としているのではないか*3。発達という観点を導入して、発生論的に問えば、私たちは生まれたら先ず特定の場面、特定の他者(親やきょうだいなど)と結び付いた汎用性の低い自己から出発して、心的能力の発達と社会的世界の拡張の効果として、〈一般化された他者(generalized Other)〉*4に対応した〈一般化された自己〉、つまり「汎用性の高い分人」が形成されるに至るということになるのではないか。つまり、平野氏の述べるプロセスは、〈一般化された自己〉の再特殊化、自己限定としてあるわけだ。
私が「複数の分人のネットワーク」として存在しているというのは、たしかであろう。それと同時に、私は「個人」としても存在している。これについては、著者も否定はしていないと思われる。その根拠が「一人の人間の体は、殺してバラバラにしない限り、分けることができない」という身体の不可分性(p.4)、或いは「色々な人格はあっても、逆説的だが、顔だけは一つしかない」ということ(p.53)にあることはたしかだろう。しかし、それだけではない。私が「個人」としても存在しなければならないのは、著者が「分人」の根拠としている他者の作用によるものだともいえる。私は(私であるところの)「複数の分人」の全容を知らず、寧ろ他者の反作用によって新たな「分人」の存在を知るということになるだろう。それは不意打ち的であり得る。全く未知の他者による全く未知の私の提示。それを肯定するにせよ否定するにせよ、私は私が慣れ親しんだ既知の「分人」と同様に責任(responsibility)を引き受け(応答し)なければならないのだ*5。特定の場面や他者を超えた私として。
関連して、酒井潔『自我の哲学史*6をマークしておく。
自我の哲学史 (講談社現代新書)

自我の哲学史 (講談社現代新書)


さて、上村忠男『ヴィーコ』も数日前に読了。これについてはまた別に。
ヴィーコ - 学問の起源へ (中公新書)

ヴィーコ - 学問の起源へ (中公新書)

*1:http://keiichirohirano.hatenablog.com/ See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070530/1180487362 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090911/1252642373

*2:Eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130617/1371437079 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130630/1372528653

*3:制度的な準位においても、自己論的な準位においても。

*4:或いは、大澤真幸用語における「第三者の審級」。

*5:仏教徒であれば、前世の私に関しても責任を引き受ける必要がある。

*6:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050716