的場昭弘『ネオ共産主義論』

的場昭弘『ネオ共産主義論』(光文社新書、2006)を読了する。

ネオ共産主義論 (光文社新書)

ネオ共産主義論 (光文社新書)

本書では「共産主義」に関する5つの問題への回答が試みられている。「五つの問題」とは、


 ・共産主義社会主義の違い
 ・共産主義のルーツとしての「千年王国論」と「ユートピア思想」*1
 ・様々な共産主義思想
 ・何故「メッシア」(「共産党」)なしでは共産主義は実現できないのか
 ・共産主義は「自然に実現する」のか、それとも「努力が必要」なのか(pp.16-18)


というものであり、それぞれに1章ずつ充てられている。
ここでは、2つ目の問題を中心に注意を引いた論点を挙げてゆく。
著者は「共産主義」思想の淵源を古代ユダヤ教に求めている。一言でいえば、「自分の力で苦難の道を歩み、地上に「エデンの園」をつくること」、「神が与えたものではなく、神によって追放された先の荒れ果てた地上において、「エデンの園」をつくること」(p.71)。そのために必要とされるのは、「欲望の制限によって独り占めしないこと、忍耐によって苦難に立ち向かうこと、貨幣によって共同体のために償うこと、知性によって神の意図を実現すること」だという(p.73)。この4つの条件は「共産主義社会を実現するための条件」でもある(p.75)。なお、「貨幣によって共同体のために償うこと」に関して、著者はアブラハムが息子イサクを生贄にしようとする故事を引いている;


アブラハムがイサクを生贄にしようとするエピソードは、「神のものは神に返す」ということを表していますが、イサクが助かったのは、その生贄ですら羊のような代わりが立てられるということを意味します。神への生贄を具体的にあらわしているのは土地から生まれる富、すなわち地上の果実です。果実は腐敗しますが、あらゆるものに交換できる貨幣として保存しておけば価値はそのままに保たれます。そして、その貨幣を神へ捧げることは、貨幣を神に返すこと、つまり貨幣を自己目的にしてはいけないということを意味しているのです(p.72)。
共産主義思想に多大な影響を与えてきたとはいっても、ユートピア思想はユダヤ教起源ではなく、西洋思想史においてはプラトンを嚆矢とする。著者曰く、

ユダヤ人は、ユートピア的発想がある意味稀薄です。むしろ悲惨な世界にとどまり、そこでの苦しみを進んで受け入れ、未来に向けて解放された世界を構築するのが一般的です。
それゆえに、ユダヤ的発想においては、現実世界の冷静な分析に多くの能力が費やされます。そうしながら、やがて解放の時を待つわけです。彼らは、現実を憂い、まったく別の土地で新たな世界を作り上げようとすることはほとんどありません。その意味でユートピア思想は、ユダヤ的ではないのです。共産主義ユートピア思想を批判しているのですが、その理由は、まさにこの問題と深く関係しています(pp.19-20)。*2
著者の意図としては、第2章「共産主義のルーツはどこにあるのか」で、「ユートピア」と「千年王国論」の区別を導入したことは、(第3章で叙述されることになる)マルクス主義とそれ以外の(「空想的社会主義」と呼ばれる)流派との対立の伏線ということになるだろうか。著者によれば、「千年王国論」の元となった『ヨハネの黙示録』がハルマゲドン後の「未来の王国」についてほとんど具体的に記述することがないように、「マルクスの書物には、共産主義社会が描かれている部分はほとんどない」ので、「マルクス共産主義」は「千年王国論」的だということになる(pp.99-100)。

貧困が蔓延する悲惨な社会に対する批判としてのユートピア思想は、人々に未来への夢、この世界のどこかにある夢の国への想像を掻き立てます。そして近代になると巨大な生産力を背景に、ユートピアはかつてよりも身近な存在として認識されるようになります。そこでは、科学と知性によって、すべての人々が豊かな暮らしを満喫できるというわけです。
一方で、ユートピア思想は禁欲的な側面をもっているため、そこで実現されるであろう生活は、修道院のような質素で禁欲的なものであることが考えられます。その意味で、『旧約聖書』にあった禁欲、豊かさ、忍耐、知性への志向が、ユートピア思想の中に形を変えて生きつづけているとも言えるのです。
ユートピア思想は共産主義思想の原点とも言えるのですが、では、ユートピア思想と共産主義が結びつくとどうなるのか。「ユートピア的な共産主義運動」は、未来を語ることに終始するあまり、現実分析が手薄となり、後にマルクスによって「空想的社会主義」と名づけられます(pp.103-104)。

一方、千年王国論的な思想は、十六世紀以来鳴りを潜めました。その理由は、千年王国論特有の奇跡や迷信といったものを信じる人々の減少にありました。その背景には科学の進歩があり、これが次第に熱狂的な信仰を阻害するようになっていったのです。しかし、十九世紀に入って、千年王国論はマルクスエンゲルスの科学的共産主義運動となって復活します。そこでは、未来を予測する術としての神の啓示が、科学的手法へと姿を変えていました(p.104)。

著者は第4章で「共産党」の独裁問題を論ずるにあたって、先ずアレント(『人間の条件』)による「政治的領域」(「公的領域」)と「経済的領域」(「私的領域」)の峻別、また「政治的領域への経済的領域からの侵犯」としての「社会」の勃興という指摘を援用している(pp.148-151)。著者によれば、アレントのこうした議論は「後にプーランツァスやアルチュセールが展開する新しい階級国家論のさきがけ」(pp.152-153)ということになる。


公的な利害が経済的な利害に左右されずに存在するという考えは、政治的領域なるものが経済的領域から離れて存在することを意味しています。もし政治的領域が経済的領域によって支配されるとしたら、国家は経済を支配する、ある特定の階級によって支配されることになります。そして、この国家は階級国家と呼ばれています。この階級国家が正当なものとすれば、プロレタリア階級が経済的権利を獲得するには、支配階級であるブルジョワ階級から国家を奪う必要があります。つまり、マルクス主義言うところの「プロレタリア階級の独裁」は、「ブルジョワ階級による政治の独占」に対抗する措置だと言えます。
しかし、もし政治的領域自体が、そもそも経済的領域から独立したものだとすればどうでしょうか。そうだとすれば、資本主義社会の経済的支配者であるブルジョワ階級といえども、政治的領域を独占していないということになります。そして、ブルジョワ階級が国家を自らの経済的利益のために自由に操っている、というプロレタリア階級の批判は確かに的外れなものであると言えるでしょう(p.152)。
さらに、

経済的利益を独占するプロレタリアが政治も独占することで、すべての政治的問題が解決されるだろうというプロレタリア独裁の思想は、マルクスというより、むしろカベーに近いとも言えます*3。(略)カベーは、政治的問題はすべて経済的問題に還元され、経済的問題を解決すれば、政治的問題はほとんど意味がなくなると考えていました。だから、そこで行われる政治は、もはや形式的なものにすぎなくなるのです(pp.153-154)。
実際の「共産党」独裁に関して、著者は思想的な前提としての「階級国家」論に加えて、
実際、歴史を振り返ると、これまで政権を奪取した共産党の多くは、議会制民主主義によって党内部を民主化することはほとんどありませんでした。共産党が、いわば”秘密結社”化し、それがそのまま一党独裁の議会体制をつくったのですから、そこには政治的領域がもつべき公的領域としての民主的可能性はほとんどないわけです(p.161)。
という歴史的事情を挙げている*4
さて、共産主義の条件として、欲望の「制限」ということがある(p.226)。「計画」や「設計」ということもそうなのだが、共産主義においても、欲望をコントロールする者/欲望をコントロールされる者という区別が導入され、著者も指摘するようにそもそも「共産党」が暴力的な独裁に陥りやすい体質をそもそも有しているが故に、この区別はさらに過酷な暴力的支配を正当化してしまうのではないかという疑念が浮かんでくる。著者はそれをスピノザ的な「マルチチュード」を援用することで切り抜けようとしているようだ(p.236ff.)。すなわち、「バラバラの利己心をもった人間が、「喜び」という感情によって結びついた姿」としてのマルティチュード(p.239);

資本主義は利己心を利用し、それを社会が発展していく上での仕組みに組み込んだ点では大成功しました。しかし、そこから生まれたネットワークには、個人個人の発展を相互に連帯化していくメカニズムが欠けています。そこでは利己心が、手段ではなく目的となってしまったことで、連帯よりも個人の富の集積の方が優先されるようになったからです。
資本主義に欠落したもの、それは欲望によって蓄積された富を、全体で分かち合うためのメカニズム、言い換えれば、他人と喜びを共有するためのメカニズムです。新しい共産主義は、そうした他者との喜びを実現するものでなければならないでしょう(pp.239-240)。
本書、特に第3章を読んでいて感じるのは、フーリエ(Cf. 122-128)の魅力である。それとともに、ある重要人物が全く言及されていないことに気づく。それはプルードンである。

*1:共産主義が未来における解放された世界を理想とするならば、当然それは千年王国論と深いつながりがあるはずです。同様に、この世界に理想郷を作ろうとすれば、ユートピアの存在を前提にせざるをえません。

*2:その意味では、近代シオニズムは非「ユダヤ的」であるといえよう。また、この問題は偶像崇拝の禁止と関連づけられて然るべきだろう。

*3:カベーについては、pp.137-140。

*4:「ブランキ主義」問題に関しては、p.176ff.。