「テーマパーク化」(阿部潔)

『毎日』の記事;

時流・底流:参院選に言いたい 監視社会−−関西学院大教授・阿部潔さん

毎日新聞 2013年07月15日 東京朝刊
 ◇テーマパーク化、風潮に懸念−−関西学院大教授(社会学)・阿部潔さん(49)

 権力による監視や管理強化に対し、主にジャーナリズムや論壇で、それが個人の自由やプライバシーを侵害すると批判されてきた。しかし、現実はそうした対立構造ではとらえきれなくなっているのではないか。

 6月28日に東京都練馬区で小学生が切りつけられる事件があった。その4日後、埼玉県坂戸市の公園で「小学生が刃物を持った男性に襲われた」と一時、大騒ぎになった。小学生の訴えを受けた学校関係者がそう通報したためだ。しかし、男性が持っていたのは木の枝で、小学生がベンチで寝ていた男性を携帯電話で撮影しようとして男性が怒ったのが真相だった。この騒動は近年の日本社会を象徴していると思う。見知らぬ人間への過剰な警戒から、何かあるとすぐに浮足立つ。メディアも含め、それに疑問を持つ人は少ない。

 日本で、面識のない人に危害を加えられる事件は少ない。犯罪白書によれば2011年に検挙された殺人事件の9割は、加害者と被害者に面識があった。公共空間での危険の実態と「見知らぬ他者」への人々のイメージがかけ離れている。

 「社会は安全でない」という世論の不安を反映して政治は「安全・安心」を繰り返し、多くの人に「見守ってもらうことで自由に楽しめる」という感覚が染みついていく。「見守る政治」への期待が日本の「監視社会化」の根底にある。

 それを徹底しているのがテーマパークだ。不特定多数が集まる公共空間だが、道ばたに酔っ払いがいたり、誰かが政治演説を始めたりすることは絶対にない。徹底した管理の下、全てが快適に期待通りに進む。その代わり、予期せぬ出来事や他者との出会いもない。監視・管理社会化は社会の「テーマパーク化」と言ってもいい。

 知人にはひねくれているとよく言われるのだが、サッカー日本代表が14年ワールドカップ出場を決めた時、「DJポリス」が東京・渋谷に集まったファンを軽妙な語りで誘導した美談も、それに通じると思う。「騒ぐのはいいけれど、社会の安寧を守るため、慎むべきところは慎んでください」というメッセージを、優しいキャラクターとしてのDJポリスが発する。路上に集まった若者は日本の出場を一体となって楽しく秩序正しく祝う。その様子は今風の心情的ナショナリズムとも親和的だ。
http://mainichi.jp/select/news/20130715ddm004070005000c.html

テーマパーク化は憲法改正とも無縁ではない。国民が国家を縛る仕組みの現行憲法は、デモなどでの国家批判も含めた表現の自由を保障している。だが、自民党憲法改正草案は「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と国民を縛る規定を明記する。DJポリスのようにソフトに説得され「義務も必要だよね」と素直に受け入れてしまった時、私たちに保障されている自由は取り返しのつかないことになりはしないだろうか。そう懸念している。

 もう一つ考える必要があるのはソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)だ。そこでは、上下ではなく、仲間同士の水平な関係で監視される。学生たちはツイッターフェイスブック、ライン(LINE)で、友人の行動を逐一チェックしている。そこに監視という意識はなく、互いに見られていることで安心しているふしもある。

 仲間同士の「見守り合い」には誰の悪意も介在しない。しかし、システム側から見れば、いつ誰とどこに行ったというような情報を、自発的に提供してもらっていることにほかならない。実はそれが国家権力に筒抜けになっていたことは、米国家安全保障局(NSA)がフェイスブックなどから情報収集していた問題で明らかだ。

 多くの人がこうした現状に「引っかかり」を感じているのも事実だ。監視による秩序維持は、人間を信頼しないということでもある。どのようにして人々の間に信頼を生み出すかが政治の課題だろう。それは、経済がよくなったからといって達成できるものではない。【聞き手・日下部聡】
http://mainichi.jp/select/news/20130715ddm004070005000c2.html

阿部潔さんとは一度か二度お目にかかったことがあるのだが、その時の印象は、ハーバーマスな人は話しにくいな、というものだった(人違いか)。