無題

 5月30日は、もう梅雨入りかとも思う鬱々とした雨模様。おまけに傘さす人をからかうかのような風も(そもそも私は傘のさし方が下手だ)。


 『現代思想』2005年6月号(特集「〈反日〉と向きあう」)を買う。
 また、岩波文庫編集部編『読書のすすめ 第10集』が出ていたので、早速ゲット。執筆者は、池澤夏樹角田光代鎌田慧佐伯彰一筑紫哲也、西川祐子、宮田毬栄、リービ英雄。ぱらぱらっと捲って、〈読書のすすめ〉一般というよりも〈岩波文庫のすすめ〉に傾いているのが多いなということは気にはなったが、何れも良質なエッセイであることはたしか。


 最近、内田樹氏のBlogを拝読するのを怠っていたので、一挙に最近の記事を読んだ。そこから幾つか抜き書き;



人間の「死」というのはどこで計量されるのか?
生物学的に死んでも、遺された人々の「心の中に生き続ける」人がいる。
一方に、生物学的には生きているけれど、その人の不在が誰にも「欠落」として感知されることのない人がいる。
はたして「生きている」のはどちらなのだろう?
その不在が痛切に感じられる死者は人間的な意味ではおそらく「生きている」のと変らない。
レヴィナスが「存在するのとは別の仕方で」という副詞で言おうとしたのは、そのような事況ではあるまいか。
「生命の重さ」を計量する度量衡がもしあるとしたら、それはどれだけ多くの人にとって、どれだけ痛切にその人の不在が「欠落」として感知されるか、その欲望を基準にしてしか量る手だてはない。
私はそう思う。
http://blog.tatsuru.com/archives/001011.php


 たしかにその通りだと思う。しかし、この「その通り」に到達するためには、幾重かの議論が必要であって、これだけぽこっと持ってくると、極めてつまらない結論も導かれてしまうかも。例えば、葬式に大勢集まった奴がエライとか。



フッサールの「他我」の説明は「家」や「机」や「さいころ」などのオブジェをもちいた卓抜な比喩で語られるけれど、これらはすべて「ある空間を占めている物体」である。
私が「家の前面」を見ているとき、私はそれを「家の前面」であると確信している。
どうして確信できるかというと、私がとことこ歩いて家の横に回り込むと「家の側面」があり、さらに回りこむと「家の裏面」があり、はしごをかけると「家の屋根」が見え、床下にもぐりこめば「家の底」が見える・・・ということについてゆるがぬ確信をもっているからである。
「そこに行けば、そのようなものが見える」という確信あればこそ、私は「私が今見ているのは『家の前面』である」と判断できる。
この想像的に措定された「そこに行って、家を横やら裏から見ている私ならざる私」、それが「他我」である。
私が世界を前にして「私」として自己措定しうるのは、無数のこの「想像的な私」=他我たちとの共同作業が前提されているからである。
それゆえフッサールは「あらゆる主観性はそのつどつねに共同主観性である」と述べたのである。
さて、フッサールの他我論のかんどころはその次に来る。
この他我たちは現事実的に存在している必要はない。
他我はある種のヴァーチャルな機能にすぎない。
だから、仮に私以外の世界の全員がペストで死に絶えたとしても、「世界は存在する」という私の確信はゆるがない。
そのときに「おいおい、とうとう人類はおいら一人かよ。参ったなあ・・・」と私が独白した場合、そのことばは聞き手がひとりもいない世界で発語されているにもかかわらず、日本語の統辞法に基づき、日本語の音韻を用いて、「聞き手にちゃんと聞き届けられるように」語られる。
それ以外の語り方を私は知らないからである。
つまり、他我は現事実的に存在しなくても他我として機能し続けるのである。
レヴィナスフッサールの他我論でとりわけ着目したのはこの点である。
レヴィナス現象学を祖述するに際して、強く強調したのは「そこにもう/まだないもの」もまた志向的対象でありうるという目のくらむような洞見であった。
「そこにもう/まだないもの」によって私は「影響される」(affecter) 。
「そこにもう/まだないもの」が自我の同一性を基礎づけ、「私」の語ることばを調律し、その統辞法や語彙や音韻を定めるということがありうる。
というか、「私」が存在するというのはそもそも「そういうこと」なのである。
「世界で最後の人間」となった私が、それでもなお現事実的には存在しない他我たちとの共同主観性の中でしか生きられないように、「そこにもう/まだないもの」とのかかわりの中においてのみ私は「私」なのである。
そのような「現事実的に存在しないにもかかわらず、存在する私にかかわりくるものもの」をレヴィナスは端的に「他者」と呼んだ。
「すでに/もう」という副詞が示すように、レヴィナスの「他者」は空間的に隔絶された実在者のことではなく、「時間的に隔絶された」という点をきわだった特徴とする。
フッサールは、人間は同時に家の前面と家の側面を認識することができないにもかかわらず、「見えていないもの」を「見えているもの」と同時に認識することなしには「見る」という行為がそもそも成り立たないことを指摘した。
フッサールの志向性は「同時に、違う場所にいる」ものをめざす。
レヴィナスの志向性は強いて言えば「違うときに、同じ場所にいるもの」をめざす。
私が「ここ」に到来するより先に「ここ」にいた人。
私が「ここ」から立ち去ったあとに「ここ」に来る人。
そのような時間的な「タイムラグ」によって構築される共同主観性のパートナーをレヴィナスは「他者」と呼んだのである(たぶん)。
だから、レヴィナスの「他者」を、空間的表象を用いて記述しようとするすべての試みは
原理的に頓挫することになる。
他者は私とは違う時間の流れに属するのであり、「存在するとは別の仕方で」私の思念と感覚に絶えず「触れ」続ける。
それゆえ「他者とは死者である」と書き換えるときに、レヴィナスの他者論はそのなまなましい相貌をあらわにすると私は『他者と死者』に書いたのである。
http://blog.tatsuru.com/archives/001013.php


 内田さんの文章をcopy&pasteしながら、シュッツのいう「視界の相互性」について私が抱いていること(自信がないので、今まで公言したことは一度もない、いや、1回くらいどっかのMLに投げたかな)の確信の度合いが上がったように思われた。因みに、シュッツのいう「社会的世界」も、先祖の世界や子孫の世界を組み込んだ仕方で存立している。