「自分探し」についてのメモ(デカルトとか)

承前*1

「自分探し」だとか「自己実現」とかいうものが新自由主義と選択的親和性を持つというのは、以下に引用するスラヴォイ・ジジェクの言葉からも明らかなのであろう;


自己実現をめざす傾向を持つ〈心理的〉主体という観念を基礎とする、選択の自由は、自由主義イデオロギーの中枢神経である。(略)統治的イデオロギーは、福祉国家の解体によって引き起こされる不安感を、新たな自由が得られる機会として売りつけようと試みている。長期的に安定した職に代わって短期契約に頼り、毎年のように仕事を変えなければならない? 職を固定するという束縛から解き放たれることで幾度となく自分を再啓発し、隠されていた人間的可能性を見つけ、発展させるチャンスとして捉えてはどうだろうか? 標準的な健康保険や年金プランにはもはや頼ることができず、新たな支出を伴う保障を追加しなければならない? ならば、今の生活の質と、長期的な保障との間で、さらなる選択の機会が与えられているのだと理解してはいかがだろう? このような窮地に立たされて不安を感じるあなたを、ポストモダン、別名〈後期近代〉の思想家は、間髪を入れずに批判するだろう。完全なる自由を受け入れることができずに〈自由から逃れて〉、変動しない古い形に幼稚に固執していると。さらにいえば、これが主体を天分に富んだ心理的個人として扱うイデオロギーに組み込まれたとき、私は時代の潮流を、自らが市場の力によってはじき飛ばされているという事実ではなく、自身の人間性に帰するのだと自動的に解釈するようになる。(「人権の概念とその変遷」*2 in 『人権と国家』*3、pp.139-140))
ところで、問題群としての「自分探し」を(近代なるものにそもそもビルト‐インされたものとして)長期的・哲学的に考える場合、問題の端緒をデカルトが超越論的主観性を発見しながら、それをマンデインな私(主観性)と取り違え、混同してしまったこと*4に求めるのは妥当なことなのだろう。斎藤慶典氏(「「私」について――社会学への哲学的プロローグあるいは幕前のモノローグ――」in 山岸健編『日常的世界と人間――社会学の視点とアプローチ――』小林出版、1993)は、デカルトは「「私」という表現の全く新しい次元を発見した」が、「彼は自らが見いだしたこの何ものかを「私」と呼ぶべきではなかったのかもしれない」という(p.74)――

デカルトが発見した「私」はデカルトという人物(当人)のことではないし、他の誰のことでもない。かつまたそれは、誰にでも適用できる一般概念あるいは人称代名詞のごときものでもないのである。(p.75)
また、フッサールに即しての以下のパッセージを取敢えずメモしておく;

さしあたって超越論的主観性が「私」と呼ばれたのは、それが、世界のすべてをそれが私に対して現われるがままの姿へと還元したさいに獲得された領野だったからである。しかしこの還元が遂行された結果、世界がそれに対して現われていたところの私もまた、超越論的領野において姿を現す一個の現象であることが明らかとなる。世界がそれに対して現われているところの私もまた、そのようなものとして現われている一個の存在者にすぎないからである。とすれば、私という表現はここで一個の現象として姿を現わした世界内部的な経験的主観に対してこそ用いられるべきものであって、超越論的主観性ないし領野には本来ふさわしくないものであることになろう。フッサールがあるところで述べていたように、超越論的主観性を正確に形容するとすれば、それは「絶対的ないま・ここ(da)」のことなのである。それが「絶対的」と呼ばれるのは、それが「いま・ここ」以外ではありえない(他の可能性を排除する)からである。(p.77)

すなわち「超越論的主観性」とはもはやいかなる意味でも「私」ではないのである。哲学があらゆる認識の最終的な基盤として見いだしたものは、絶えざる変転の内にありつつなおかつ常に自己同一的な、端的な「いま・ここ」なのである。そしてあらゆる学的認識もまた、それが認識であるかぎり、何らかの仕方でこの「いま・ここ」に根ざすものであるに違いないのである。(p.79)
方法序説・情念論 (中公文庫)

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