永井均『〈私〉の存在の比類なさ』

〈私〉の存在の比類なさ (講談社学術文庫)

〈私〉の存在の比類なさ (講談社学術文庫)

永井均*1『〈私〉の存在の比類なさ』を読了。


学術文庫版へのまえがき
はじめに



他者

II
独在性と他者――独我論の本質――
ウィトゲンシュタイン独我論
独我論と他者――あるいは宇宙の選択の問題――

III
独在性の意味――山田友幸氏の批判に答え、入不二基義氏の所論を批評する――
独在性の意味(二)――大庭健氏の批判に答え、入不二基義氏の所論を更に検討する――

IV
書評1 大森荘蔵著『時間と自我』
書評2 野矢茂樹著『心と他者』
書評3 B・マクギネス『ウィトゲンシュタイン評伝』/レイ・モンク『ウィトゲンシュタイン 1・2』


差異と本質――ヴィトゲンシュタインソシュールフッサール――


解説(茂木健一郎

本書は(著者の位置づけによれば)「独在論にかんする入門書」であり(「学術文庫版へのまえがき」、p.3)、また「『〈子ども〉のための哲学』以前の私の歩みを記録したもの」であるという(「はじめに」、p.7)。
<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

本書の主題である「独在性」或いはギメ付きの「〈私〉」*2についてわかったかどうかは疑問。というよりも、永井氏の論によれば、「〈私〉」というのは、わかったと思った瞬間に「〈私〉」ではなくなってただの「「私」」になってしまうようなものなのであるが。
少し抜書き。

〈私〉の単独性、孤絶性は、〈私〉は世界の開けの原点であって、他の人間たちは〈私〉の世界の中の登場人物にすぎない、という単純だが根本的な理由によっている。〈私〉が他の人々に対していかなる態度をとろうとも、この構図を崩すことはできない。そして、この構図のもとでは、他人たちが〈私〉の隣人でありえないことは明白であろう。それゆえ問題は、〈私〉が他の人間たちとはまったく異質なあり方をしており、その意味でそれらから完全に孤絶しているのと同じような仕方で、それらから完全に孤絶しているものを、すなわち他者を発見することなのである。(「他者」、p.59)

他者は〈私〉の世界の中には登場しない。なぜならば、他者は物や人のような世界内の一対象ではなく、世界を開くもうひとつの原点、いやむしろ、もうひとつの〈世界〉そのものだからである。先に私は、人物Bを例にとって、「Bにとっての〈私〉」という言い方はもはや何も語らない、と述べた。「Bの〈魂〉」という表現についても同じことがいえるだろう。これらの表現は、Bという〈人〉の同一性に支えられて始めて何ごとかを語りうるのだが、〈魂〉の存在は〈人〉を通しては把握できないからである。他者を、つまり他の〈魂〉を発見することは、〈私〉の世界にはけっして入り込んでこない、根本的に異質なもうひとつのすべてを、発見することである。もうひとつのすべて=隣人を持たないものの隣人。(「他者」、p.76)

(前略)デカルトは『省察』のなかで、おそらくは歴史上初めて、独我論の境位を明確に提示したが、彼はまたそのことによって、そしてそのことによってのみ、他者の存在の意味を、これまたおそらくは歴史上初めて、暗黙の内に提示したのである。省察するデカルトにとっての他者とは、デカルトと同様の省察を彼とは独立におこないうるもの、それゆえ省察するデカルトの主張に決して賛成することができないもの、すなわち、別の疑い得ぬもの、としてのもうひとつの〈魂〉のことなのである。
しかし、その別の疑い得ぬものがもしポジティヴに存在するとすれば、それはすぐさま疑い得るものの領域に転落してしまうだろう。〈私〉と他の〈私〉とは、いかなる世界のなかでもけっして共存することができない。世界霊魂は「ただ一つの現実に存在する」のだから。(略)他の〈私〉は、あるいは他の〈魂〉は、それを主題化し、ポジティヴに語ろうとすると、そのとたんに他の〈人〉に、あるいは他の〈心〉に、すなわち隣人を持つものの隣人に変質してしまうのだ。しかしながら、他者とは、他者性をその究極の地点で捉えるならば、いつもつねに、隣人を持たないものの(隣人を持たないというそのことを含めた)隣人のことでなければならないのである。
それゆえ、他者に対する態度が、すなわち他の〈魂〉に対する態度がもし可能だとすれば、それはいわば独我論的な態度でなければならないことになる。それは、けっして出会うことができないものに対する、〈私〉の世界の中にはけっして登場してこないものに対する、つまりはそれに向かって態度をとることができないものに対する、愛や同情や理解を越えた態度でなければならないのだ。なぜならば、〈私〉の独我論は、それにしたがえば本来存在しえないはずの他の〈私〉、他の〈魂〉の存在を暗に措定したときにのみ、まさに独我論という論として語りうるものとなるのであり、他の〈私〉、他の〈魂〉を暗に措定することなしには、〈私〉を主題化することはできないからである。それゆえ、他者の他者性は、〈私〉を、もっぱら〈私〉だけを、指示しようとする意志のなかで、その意志が生み出す意味作用の不可避的な副産物として、ただ非主題的にのみかいま見られるのである。(後略)(「他者」、pp.80-82)

まったく虚心坦懐に、事態をあるがままに捉えることができるならば、独我論ないしそれに類する世界の捉えかたは、端的な事実そのものの素直な受容であって、哲学者の作りだした屁理屈でも深遠な形而上学でもない。なぜなら、私とは他に同じ種類のものが存在しないまったく独自な存在者であり、すべての他のものはただその私に立ち現れているにすぎない(そしてこのことは、今かりに「私」と名づけられたきわめて特異な存在者が、反省的な「私」の意識を持つかどうかには関係なく言える)からであり、このある意味であまりにも明白な事実を、複数の主体が同格的に存在することをこれまたあまりにも明白な事実として前提とする我々の言語ゲームの中に定礎し、公共的に理解可能な「論」として立てることには、ある本質的な困難がある。そもそもその「私」とは誰なのか。誰もがそれでありうるではないか。この反問を受け入れた瞬間、独我論の意味は変質するのである。世上「独我論」あるいは「独我論的」と呼び慣わされている「論」の多くは、実のところは、この本質的な困難の前に挫折しこの変質を受け入れたその残骸にすぎない。そして、私の考えるところでは、この挫折と変質の究極的な不可避性のうちにこそ、そしてここにのみ、「他者」という問題の本質を見ることができるのである。(「独在性と他者」、pp.92-93)

(前略)矛盾的・逆説的な仕方で複数個存在しうる〈私〉を、〈魂〉と表記するなら、〈魂〉は垣間見られたとたんに、「魂」に転落するのである。他者とは別の独在者である。だが、このことが承認された瞬間、他者はあいならぶ単独者となるのだ。この等質化・平準化からもう一度離反するためには、再び独在化の運動が開始されなくてはならない。独在性は等質的・頽落的な水準からの絶えざる離反という形でしか自己を示すことができないからである。そして、独在性のこの離反が独在的水準を保ったまま一般化されるとき、そこにまた一瞬、あってはならないものがあるというパラドクシカルな事態が成立する。〈 〉という記法が示すのは、独在と頽楽の終わることなきこの拮抗運動なのである。(「独在性と他者」、pp.111-112)

(前略)私もまた[大庭健がいうように]いやしくも何ごとかを語り考えるためには、人は何らかの行為システムに参与するほかはなく、思考作用は言語的に構造化されており、言語は可能的な聞き手があってはじめて可能な対他的な呼応のシステムであると、信じている。また、「ソコなる者」との間が存在せぬ「ココなる者」などありえぬという点も、大庭が問題にしているような水準においては、当然のこと――あまりに当然すぎて取り立てて言う必要があるとは思えないほど当然のこと――だと思っている。のみならず私は、「永井流の独我論」をまったく手放すことなしに、大庭の「人―間」論やその師廣松渉の共同主観性論のすべてを、まるごと受け入れることができる。なぜならば、その種の議論は、それ自体の評価はどうあれ、私が問題にしてきた独在性の問題とはいかなる接点もなく、対立しようにも対立点がどこにも見出せないからである。(「独在性の意味(二)」、pp.216-217)

(前略)もしかりに、大庭のいう「一切のシステムを超越し・一切の他者との間なき・私」なるものが存在したとしても、それは私のいう独在性の〈私〉の存在とは無縁である。そういう奇妙な孤立体が存在しうるか否かに、私の関心はない。大庭のいう「私」が、もし私のいう〈私〉の意味だとすれば、それは、システムを超越するか否か、という問題が成り立つのとは違う次元で、無理由に存在し、また存在しない。それゆえ重要な問題は、大庭のいうその「私」が(後半で検討する*3入不二の記法を使って)私1なのか私2なのか私3なのか、それとも(それとの関連で私が新たに導入する記法を使って)私4なのか、という点にあるのであって、それがシステム内属的であるか否か、対他的であるか否か――それらは恐らく「私1」にしか妥当しない問いである――といった次元にはない。(「独在性の意味(二)」、pp.217-218
最後に収録された「差異と本質――ヴィトゲンシュタインソシュールフッサール――」については後日改めて言及する予定(は未定)。

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061116/1163683146

*2:「たまたま自分自身であるところの一人物でもなければ、誰にでも備わっている自我といったものでもない、〈私〉の存在」(「他者」、p.47)。

*3:See p.222ff.