高橋哲哉『戦後責任論』/『年報社会科学基礎論研究』

 5月31日は、午前中は雨だったものの、午後からは晴れ、月並みな表現で恐縮だが、新緑の色が目に心地よい。
 高橋哲哉戦後責任論』(講談社学術文庫)を読了する。
 本書の主要な内容は、〈自由主義史観〉(西尾幹二、藤岡正勝)や加藤典洋に対する批判である。所謂〈論争の書〉。これらの元々のテクストが書かれたのは1990年代だが、勿論、〈新自由主義史観〉に対する批判などは、現在においても、その重要性は、増えさえすれ、減ることはないだろう。しかし、加藤典洋に対する批判に関して、本書を読む限りでは(ここで加藤のテクストを直接参照していないのだから、以下の私の言葉たちは〈フェア〉なものではない。予めお断りしておく)、加藤の論というのは、全くの低レヴェルで、これが〈論争〉という体を為していたことが信じられないくらいだ。本書を読んでの率直な感想は、高橋さんは何故馬鹿を相手にこれだけの言葉を費やすという労力の浪費を行っているのだろうかということだ。
 高橋氏の論は明瞭であるのだが、時には、〈論争〉というコンテクストのせいだろうか、ついalter-egoたる加藤に同一化しすぎてしまうという箇所もある。例えば、



まず、「われわれ日本人」を立ち上げないとアジアの死者に向き合えない、というべきでない。まずアジアの死者に向き合わなければ「われわれ日本人」を立ち上げることもできない、というべきだろう(p.247)


最初のセンテンスは問題ないだろう。次のセンテンスは、加藤の言をたんにひっくり返しただけのものだ(ただ、高橋氏が「立ち上げることも」と「が」ではなく「も」という助詞を使用していることは考慮しなければいけないだろうが)。つい言ってしまったというべきか。だが、この一言によって、高橋氏の論は、「アジアの死者」が先か、「自国の死者」が先かという(無限に続きうる)応酬のループに巻き込まれてしまうことになる。或る意味で、この応酬のループは、加藤が自作自演的に構築しているところの「ねじれ」或いは日本の「人格分裂」をそのまま反覆するかのようである(そもそも精神分析的な言説ではよく用いられる、国家・国民のような集合体を擬人化し、その人格や精神を語るというやり口*1は、集合体が身体も頭脳も持たないが故に、つまらない比喩にすぎず、学問の衣をつけて公に語るべきものではないとは思う)。ここで、高橋氏がいうべきことは「「われわれ日本人」を立ち上げること」の不必要性だったのではないだろうか。それはまず、「立ち上げる」かどうかにかかわりなく、「われわれ日本人」は既に即自的には存在しているのであり(そうでなければ、アジアの戦争の被害者が面と向かって呼びかけることはできないだろう)、 例えば「「従軍慰安婦」問題」が「赦しがたいと感じるのに日本人である必要はない」(p.246)。また、「応答可能性としての責任には、原理的に国境という境界はありません。呼びかけが聞こえるかぎり、そして、呼びかけが聞こえさえすれば、この責任は生じる」(p.41)。ただ、その中でも、「日本国家という法的に定義された「政治的」共同体に属する一員」、「国際法によって日本国民の一員であり、日本国憲法によって日本政府の政治的主権者である人」としての日本人(p.53)には、特別の(その他の人々とは違った)責任の在り方が期待されるということなのである。曰く、



日本人でなくても、フランス人であっても韓国人であってもインド人であっても、日本政府に侵略戦争の法的責任をとれと迫ることはできます。発言や運動をする権利もあります。歴史教育の姿勢について日本政府を批判することもできますし、批判する権利もあります。しかし、フランス人や韓国人やインド人は、通常は日本の参政権がありませんから、主権者として日本政府に政治的権利を行使することはできません(p.56)。


つまり、「日本人としての政治的権利は日本国民の排他的”特権”」なのだ。しかし、ここで問題なのは、各人と日本政府との関係なのであり、決して「われわれ」ではない。


 では、以下は、〈加藤〉問題を離れて、気になったところを備忘録的に抜き書きしたい。


 #クロノロジーアナクロニズム
 chronology 「時間の論理」
          「時間の合理的秩序」
          時間の「理性そのもの」(『ハムレット』のクローディアス)
 −−「ハムレットはまさに、この時間の理性、クロノロジーに抵抗しています。おそらく無意識のうちに抵抗しているのです」(p.75、強調は引用者)。
 anachronism    「クロノロジーの混乱」
          「クロノロジーの転倒」
          「クロノロジーへの反逆」
 −−「「亡霊」の出現は本質的にアナクロニックである。亡霊的記憶はクロノロジーに従わず、逆にクロノロジーに反逆する。喪の作業の「自然」な時間、「理性」的な時間、ノーマルな正常な順序、「男らしい」順序に従わない。それらを混乱させにやってくる」(p.79)−−「無意識は時間を知らない」(フロイト



身に覚えのない過去、「記憶にない過去」が現在に現われて、現在に亀裂をもたらす。将来も、これからどんな「記憶にない過去」が現われるか分かりません。現在と、現在に知られているかぎりの過去と、現在から予想される限りの未来という、この現在中心のクロノロジーの外から、アナクロニックにやって来るのが「亡霊」的記憶です(p.85)。


 #just one witness(Carlo Ginsburg)−−「すべての証人は「たった一人の証人」」

誰もが最終的には自分の位置からしか証言できないのです。記憶の「継承」とは、したがって同一者の反復ではありえません。差異を含んだ反復でしかありえないのです。すべての証人は、そのつど自分の位置から新たに証言するのです。もっといえば、差異を含んだ反復は、ハムレットからホレイショーへの交替で初めて生じるのではありません。一人の証人のなかで、記憶はすでに差異を含んだ反復としてしか存在しえないからです。三〇年後のスレブニクは、三〇年前のスレブニクではありません。出来事は経験させるやいなや、目撃されるやいなや、刻一刻、証人自身のなかで差異を含んで反復され、忘却を含みながらも生き延びていくのです。生き延びること、生き残ることは、差異を含んだ反復としてしかありえない。ここから出てくる重要な認識は、どんな証人も、「死者と同一化する」という幻想は捨てなければならない、ということです。厳密にいえば、人は自分自身の過去とさえけっして「同一化」することはできないのですから(pp.88-89)。



通常の社会的関係は、「第三項」−−概念、理想、役割、利害など−−に媒介された「合一」としての「われわれ」で、これは「派生的な社会性」にすぎない。レヴィナスは(中略)すべての社会的関係を「他者との社会性」を起点として、そこから組み直そうとする。「他者」の「顔」との対面は、いっさいの社会性の解体というより、いわば「根源的社会性」による「派生的社会性」の脱構築なんだよ(p.240)。


 「ジャッジメントの問題」は本格的なアレント論であり、改めて読みを示してみたい。

 ところで、石橋湛山への言及(p.184ff.)。いくら〈自由主義史観〉=藤岡正勝に対する論駁の文脈であるとはいえ、違和感を感じてしまうのは、決して私だけではあるまい。これでは、石橋湛山はたんなる「功利主義」であるというイメージを植え付けかねないし、残るのは「つくる会」的なナショナリズムをインスパイアしたという汚名であり、〈抵抗者〉としての石橋湛山は隠蔽されてしまう。「功利主義」云々というのも、当然ながら、その当時の政治的・言論的状況の中での応答的関係において理解されなくていけない。




 現代社会と〈宗教〉の鏡−−年報社会科学基礎論研究4』ですが、月が明けても、http://www.harvest-sha.co.jp/の方はまだ更新されていないみたい。しかしながら、大谷栄一氏が目次を紹介されている。

特集「現代社会と〈宗教〉の鏡」
角田幹夫「孤独と近代−『収用』と自己という獄屋」
望月哲也「宗教復興と文明論的分析
伊藤雅之「スピリチュアリティ研究の射程と応用可能性
  −生老病死におけるスピリチュアル体験に着目して−」
櫻井義秀「『カルト』問題における調査研究の諸問題
  −フレーミングとナラテイブをめぐって」
大谷栄一「宗教社会学者は現代社会をどのように分析するのか?
  −社会学における宗教研究の歴史と現状一」
                                 
論文
竹中均「マゾヒズム超自我・序説
  −フロイト精神分析再読解の可能性−」
田中俊之「『男性問題』とは何か
  −フェミニズム以降の男性をめぐる言説−
大出春江「出産の正常と異常をめぐるポリティックスと胎児の生命観」
奥田道大「シカゴ学派社会学と21世紀という時代
  −セカンド・シカゴ以降を射程として−」

連載[社会学の現在4]フーコーと社会的構成
赤池一将「『監獄の誕生』にみる「犯罪性」という自明性について」

書評論文
武井順介「社会調査における〈信憑構造〉 とその揺らぎ」
張江洋直「シュッツ社会学の継承と展開」

社会科学基礎論研究会活動報告
執筆者紹介
欧文タイトル

編集・執筆に関わった者いうのも変ですが、どれも力作論文ばかり。とりわけここでプッシュしたいのは、最後の書評論文2本です。まさに、山椒は小粒で....ということ。




 「安田(ゆ)」さんの


 「右翼な労組−−あるいは現代のドン・キホーテ」


サブタイトルですが、ちょっと〈放浪の騎士〉に失礼なのではないかと思った。また、その「安田(ゆ)」さんの


 「韓国の民族主義−−ちょっと違うらしい」


はちょっと興味深かったので、少し引用;

なぜか韓国のナショナリズムには、日本の(あるいは中国や米国の)ナショナリズムのような「キナ臭さ」「血なまぐささ」が薄い。表面的には過激に見えるのだけど、どこか無邪気で微笑ましくさえある。
また、

そんな韓国の「草の根民族主義」に対して、大政奉還以来、民族の物語としての天皇制を国民国家のシステムの中核に据えることで構成される日本の民族主義とは、同じ民族主義、あるいはナショナリズムと言っても、その機能は全く異なるものだろう。


 私事で恐縮ですが、金曜日から暫く久々の夫婦再会。 

*1:それにしても、加藤の言っていることが岸田秀のパクリにすぎないことを、何故か高橋氏は言及していない。