山城新伍

『読売』の記事;


仁義なき戦い」の俳優・山城新伍さん死去


 テレビ時代劇「白馬童子」や、バラエティー番組での軽妙な司会で知られた俳優の山城新伍(やましろしんご)(本名・渡辺安治(わたなべやすじ))さんが12日午後3時16分、嚥下(えんげ)障害による肺炎のため、東京都内の老人ホームで死去した。70歳だった。

 葬儀は近親者だけで済ませた。

 京都府生まれ。高校卒業後、東映のニューフェースとして入社。

 1958年、映画「台風息子」でデビュー後、60年の「白馬童子」に主演して子供たちの人気を得た。その後、東映の時代劇映画に数多く出演。会社がヤクザ映画路線に転じると、「不良番長」シリーズや「仁義なき戦い」シリーズで活躍した。

 俳優の川谷拓三さんとコンビを組んだ即席めんのCMで軽妙な印象を残したほか、「独占!男の時間」「新伍のお待ちどおさま」などのバラエティー番組に出演し、歯切れのいい司会ぶりで幅広い人気を集めた。
(2009年8月14日07時40分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20090814-OYT1T00244.htm

60を過ぎて離婚し、独り暮らしになったということは知っていたが、老人ホームに入っていたということは知らなかった。
山城さんの映画役者としての全盛期は知らず。ただ、その後、そのキャラを生かす脚本があまりなかったということは遺憾なこと。「どん兵衛」のCMでコンビを組んだ川谷拓三とは対照的に。TVの某時代劇でそのキャラにぴったりとはまった役をやっていたのを視たことがあるが、題名を忘れた。
やはり、世代的に、『独占!男の時間』に言及しないわけにはいかないだろう。『11PM』とともに、私の世代の多くの男子にとって、『独占!男の時間』はTVにおけるエロの入門だった筈*1。勿論、世の少なからぬ、良識的で検察官的心性の人々は、『独占!男の時間』や山城新吾を俗悪だとか頽廃的だとか非難したわけだが、今こそ新聞は当時俗悪だとか頽廃的だとか攻撃した側のコメントでも取ってみるべきでは?
ところで、彼は左翼の医者の息子で、差別問題とかにはそれなりの見識を持っていた筈。
善い悪いということではなく、男女関係や親子関係で失敗してしまうということはよくあることなのだろうけど、歳を重ねてからの失敗はやはりリスクが大きい。以下、『デイリースポーツ』の記事;

山城新伍さん 老人ホームで孤独な最期

 

 俳優で司会業もこなした山城新伍(本名・渡辺安治)さんが12日午後3時16分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都町田市の特別養護老人ホームで死去していたことが、14日分かった。70歳だった。臨終をみとった親族は弟のみ。女優で元妻の花園ひろみ(68)や長女・南夕花(42)とは絶縁状態で、孤独な最期となった。

  ◇  ◇

 山城さんの遺体は14日朝に東京・大多摩霊園で荼毘(だび)に付され、同夕、弟・渡邉鎮雄さん(69)とともに京都市内の実家に帰宅の途についた。

 鎮雄さんによると、山城さんの容体が悪化したのが今月10日。12日午前に駆けつけた際、酸素マスクを装着し、胸をゴロゴロさせていたという。最期は苦しむ様子もなく、安らかに、眠るように息を引き取った。13日朝には、遺体が安置されていた霊安室に、山城さんと同年生まれで、「兄弟」と呼び合う盟友・梅宮辰夫(71)と俳優・曽根晴美(71)が駆けつけ、山城さんと無言の対面を果たした。

 山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。

 07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市内の老人ホームに入所。その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の南夕花に連絡したが、花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという。

 その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしまったという。鎮雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした。

 生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。このままひっそりとしてほしい。人と接したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には会いたいなあ」とよくこぼしていたが、その願いはかなわなかった。

 なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が発起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお墓に分骨される。
http://www.daily.co.jp/gossip/2009/08/15/0002235486.shtml

*1:12チャンネル、つまり東京ローカルだったので、関東地方以外の人は視ていない?

下水にタミフル

承前*1

『読売』の記事;


下水の排水にタミフル、ウイルス耐性化の恐れも

 インフルエンザ流行期に、治療薬タミフルの成分が下水処理場から河川に放流された排水中に高い濃度で含まれていることを、京都大流域圏総合環境質研究センター博士課程3年ゴッシュ・ゴパールさん(30)と田中宏明教授らが突き止めた。


 インフルエンザに感染している野鳥などがこの水を飲んだ場合、ウイルスがタミフルの効かなくなる耐性になる恐れがあるという。

 研究チームは、京都府内にある三つの下水処理場について、放流水と処理場の上流、下流の河川水のタミフル濃度を測定した。その結果、季節性インフルエンザ流行のピークにあたる今年1月下旬〜2月上旬に、放流水で水1リットルあたり最大約300ナノ・グラム(ナノは10億分の1)、下流の河川水では最大約200ナノ・グラムを検出した。

 沈殿処理した下水を浄化する標準的処理を行っている2処理場ではタミフルの40%以下しか除去できていなかったが、標準的処理に加えてオゾン処理もする処理場では90%以上除去できていたこともわかった。

 人が服用したタミフルの約80%は、そのまま体外に排出されているとされる。
(2009年8月15日03時12分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20090814-OYT1T01187.htm

こういう「耐性化」の経路もあったか。

家族でカラオケ、それとも美術館? など

承前*1

耳塚寛明先生らによる「全国学力テスト」の結果分析(についての報道)を巡って、


ところで、「本の読み聞かせ」や「ニュースを話題に」して子どもを教育するにしても生活に余裕がなければ、やりたくても出来ませんよね。年収200万円以下といえば、母子家庭などが多いと思われますが、昼も夜も働いて夕食も一緒に出来ないような家庭では、「心がけ次第」と説教されても何かしらけてしまいますね。母子家庭では極端な例と思われるかもしれませんが、両親がいても共稼ぎ家庭では子どもとかかわる時間はどうしても制限されますね。夫婦共稼ぎは「女性の自己実現」というより「生活が苦しい」からという理由でそうなっている場合が多いですからね。調査を担当された大学の先生は恐らく生まれてお金に不自由のない生活をされてきたのでしょう。「(絵本の読み聞かせなどが)経済格差が招く学力格差を緩和するカギになる」という発言に「持たざる庶民」との生活感覚の落差を感じると言えば言い過ぎでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/i-haruka/20090805/1249459781
また、そのコメント欄に、

Maa-chan 2009/08/06 20:34
 (略)

 記事にもあるように,
・お金がある=学力がある
・それは「小さい頃から絵本の読み聞かせをした」「博物館や美術館に連れて行く」「ニュースや新聞記事について子供と話す」ことができている
 という論理は,どうも教育学者の論理であるようにしか思えませんし,失礼ながら研究としていかがか,という思いもいたします。
 またこの中身だけでは,学校という公教育の全否定につながりかねず,現場の教員の「がんばり」を否定しているようにも思えます。

 ただ,「非科学的」ではありますが,学力が低いお子さんのご家庭をみると,経済的に厳しいと思われるご家庭が少なからずあることは事実です。
 こうしたこども達への支援,という役割を持つ専門職としてスクールソーシャルワーカーが必要,という「我田引水」な論理は成り立つかな,とは思います。
(後略)

親の経済資本の子どもへの影響を緩和する途として、例えば公共図書館の充実とか学童保育の充実といったことがある。ただ、問題が複雑なのは〈文化〉が絡んでいるからだ。「心がけ」の問題では断じてない。家族でカラオケに*2行く文化と家族で美術館に行く文化があって、後者の文化の親の子どもの方が学校文化に適応しやすいということ。私たちがどんな文化を身に着けるのかというのは、経済的階級を含む様々なファクターによって決定されているのであって、そうしようと思い立っても、心がけても、身につくとは限らない*3。また、いくら子どもの学業成績に不利だからといって、その文化を否定できるのかということもある。文化、或いは人間の生は子どもの学業成績の向上という目的に従属するものではないのだ。

さて、


祖母から聞いた話だが、戦時中なにがイヤだったかと言えば、隣組や町内会の縛りがうるさかったこと。なにかと「皇国の臣民たれ」と注意を受けて、どうでもいいことを「銃後の守りがなっとらん」とか評価されたのにうんざりしたらしい。巻き込まれて死ぬ恐怖はもちろんあったが、「割烹着の着方から、ぞうすいにどのぐらい米粒が入っているかまで」 どうでもいいことをいちいち言われたことに、相当腹が立ったようだ。祖母の語った戦争の話といえば、空襲から命からがら逃げたよりは、「仕事もろくにできないくせに、役に付いたら、いきなりえばり出して、お国のためと難癖つけてきた奴ら」がいかに最低だったか。という話の方が印象に残っている。

これは、祖母だけの体験じゃないと思う。昔、NHK朝の連続ドラマを見ていると、戦時中がストーリーの必要上描かれる場合には、よく祖母が言っていたような、隣組や愛国婦人会による非国民血祭りのシーンが出てきた。

例えば、戦地に行く前の学徒出陣の兵士がピアノを弾いていると、そこに婦人会や町内会のオヤジが乱入してきて、「なに、敵性音楽をのんきに演奏しているのだ。戦地では兵隊さんがお国のために汗を流していると言うのに」と吊るし上げる。「いや、これは同盟国のドイツの作曲家、ベートーベンの作品ですが、なにか」と言い返すと、ぐうの音も出ずに退散とかw。

それ以外にも、せめてもと明るい着物をモンペに仕立てて、戦地へ向かう夫を見送りに行った妻が、「華美な服装をして」と吊るし上げ食らうとか。勤労奉仕帰りに、女子学生たちが無事帰れるうれしさに、歌を歌って歩いていたら、突然、オヤジに「非国民め」と罵られたり。
http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20090809/p2

こういう話は、私もよく年寄りから聞かされていた。上の文章で「愛国婦人会」とあるのは多分「国防婦人会」だろう。「愛国婦人会」は既に明治時代から存在する華族夫人を中心とする団体で、大衆性はなく、路地横丁まで浸透するということはなかった(Cf. 藤井忠俊『国防婦人会』)。ジェンダーとか階級(階層)という変数を考慮してみると、上の話も別様に読めるだろう。「「割烹着の着方から、ぞうすいにどのぐらい米粒が入っているかまで」 どうでもいいことをいちいち」文句をつけた人にとっては、「国防婦人会」は姑の監視や束縛を逃れて、堂々と家を出て社会活動する契機だったわけだし、また愛国とか戦争遂行ということを口実として、それまでは対等に口を利くこともできなかっただろう近所の〈奥様〉にタメで口を利き、さらには上から説教することもできるようになったということだ。
国防婦人会―日の丸とカッポウ着 (岩波新書)

国防婦人会―日の丸とカッポウ着 (岩波新書)

勿論、〈丸山眞男をひっぱたきたい〉的な心情に好意を寄せるつもりはないけれど。

「オバマ時代のポップ・カルチャー」

KURT ANDERSEN “Pop Culture in the Age of Obama” http://www.nytimes.com/2009/08/09/books/review/Andersen-t.html


先ず、ポップ・カルチャーというのは大衆文化*1とはちょっと違うということ;


The term “pop culture” appeared around 1960, just as its meaning became confused. High-culture up-and-comers were embracing pop imagery and tropes with a vengeance, and the best and brightest creators of entertainment were suddenly producing work of thrilling sophistication and complexity. It was also the coming-of-age moment for the first baby boomers, a cohort defined by its television-saturated upbringing and unparalleled level of college education — a generation, in other words, unapologetic in its love of commercial pop even as it put on arty airs.
さて、Andersen氏によると、1960年代〜1970年代において、純文学の作家たち、例えばジョセフ・ヘラー、ジョン・チーヴァー、ソール・ベロー、サリンジャーウィリアム・スタイロン*2エドガー・ローレンス・ドクトロウ*3ジョン・アップダイクフィリップ・ロスは同時にセレブであり*4、彼らの文章を全然読んだことがない庶民でも名前は知っていたし、どの著者もNYTのベストセラー・チャート1位の本を書いている。しかし、1980年代になると、第二次大戦後生まれで、NYTのチャートで1位になる本を出す純文学作家はほとんどいなくなってしまった。しかし、これは単純に文学がマス・カルチャー或いは大衆文化に駆逐されたという話ではない;

But irony of ironies, after literature was evicted from mass culture, pop culture itself began to fragment and lose its heretofore defining quality as the ubiquitous stuff that everybody consumed. In a typical week nowadays, fewer than 6 percent of Americans see the most popular scripted series on television. So we have arrived at a strange new historical moment. Literature is just another (minor) sector of the culture industry, but now even the mandarins agree that certain pop artifacts — “The Sopranos,” “The Simpsons,” Radiohead — are cultural creations of the first rank. Meanwhile, popular culture and mass media are no longer very popular or mass. By and large, both entertainment and art appeal to niches, cultural tribes that range in size from tiny to smallish.
日本人の理理論家がいうところの〈島宇宙化〉という奴ね*5
島宇宙化〉を埋め合わせるかのように、時々国民的或いはグローバルなブームが生起する*6。例えば、グローバルな『ハリー・ポッター』ブーム、マイケル・ジャクソンの死を契機とした2週間に亙るノスタルジーの嵐*7、さらにはバラク・オバマのブレイクも。
Andersen氏は、”In our Balkanized era, Barack Obama simply is the pop cultural colossus.”として、オバマを大統領にまで押し上げた米国社会における3つの大きな文化的トレンドを挙げる;

First there was the steady blackening of American popular culture. He was 4 when “I Spy,” co-starring Bill Cosby, first went on the air, and 6 when Sidney Poitierstarred in “Guess Who’s Coming to Dinner?” In the early ’80s, just as Obama entered adulthood, Jackson released the best-selling record ever, Bryant Gumbel was the new “Today” show anchor, Michael Jordan became the greatest American athlete, “The Cosby Show” was the most popular show on television, and Oprah went national. Then came Tiger Woods and white youth’s embrace of hip-hop. This transformation had been happening incrementally for more than a century, as Leon Wynter explained in his great book, “American Skin.” “The future,” Wynter wrote presciently in 2002, “is not about black people leading black people,” but “about black people leading all Americans.”

Then there’s our turn-of-the-21st-century pop-intellectual zeitgeist. Although most of the seats for serious novelists at the mass-market table were removed, PowerPointable nonfiction books retained their ability to shape the popular discourse. Malcolm Gladwell’s and Thomas Friedman’s books starting with “The Tipping Point” (2000) and “The World Is Flat” (2005), Steven Levitt and Stephen Dubner’s “Freakonomics” (2005) and Michael Pollan’s “In Defense of Food” (2008) have become phenomenally popular by embodying a cheerful, bracing, empiricist rigor without tilting too strongly left or right. They are lucid and accessible, carefully researched but not boring, pop but not too pop. And they have flourished in counterpoint to the harsh, predictably ideological manifestoes — from Rush Limbaugh’s “Way Things Ought to Be” (1992) to Michael Moore’s “Stupid White Men” (2001) — that dominated the pop political discourse during the preceding decade. In other words, the new species of pop-intellectual best seller is like Barack Obama himself.

The third big trend that helped usher in the Age of Obama was the morphing of news into entertainment. During the last decade, with the proliferation of Web news and 24/7 cable jabberfests, the old ratio of news supply to demand was upended. The vast new maw needed feeding, and a charismatic young black candidate and then president was a godsend. “The Daily Show” and “The Colbert Report” finally dissolved the remaining membrane between news and pop culture. What’s more, the Comedy Central hybrids are (like Obama) fair-mindedly center-left, manifestly smarter (like Obama) than their conventional counterparts and hosted by men (like Obama) born in the early ’60s.

さらに、オバマ陣営がポップ・ミュージックやヴィデオを他陣営よりも上手く使ったということも指摘されている*8
ただ、結論は、ハイ・カルチャー/ロウ・カルチャーという安易な区別をもう止めよう、オバマの勝利はそうした区別に当て嵌まらない「ヴィジョンと知性に人民は反応するだろう」ということを証明したのだと、ちょっと当たり前といえば当たり前。
ところで、結論の1つ手前で、オバマ大統領のi-Podの中身について言及されている;

And then there’s Obama the tasteful pop-culture-consuming American, redefining presidential regular-guyness. On his iPod, Obama says, are “probably 30 Dylan songs,” “African dance music,” “Javanese flute music,” Yo-Yo Ma, Howlin’ Wolf, John Coltrane, Jay-Z, Frank Sinatra and Sheryl Crow. Having admitted getting high as a young man, as president he met with the Grateful Dead. The first movie he watched in the White House was “Slumdog Millionaire.” He doesn’t just name-check, but convincingly declaims — he prefers Spider-Man and Batman to Superman because “they have some inner turmoil.” And — crucially — he’s even acute and impolitic enough to discriminate between quality and crud: his favorite movies are the first two “Godfather” films, but he acknowledges the inferiority of “Godfather III” and says his wife “likes ‘American Idol,’ her and the girls, in a way that I don’t entirely get.” Yet the democratic spectacle of “American Idol” is of a piece with Obamaism, of course, given that the show is all about the excitement of watching a telegenic, talented nobody transformed by national referendum into a celebrity.
たしか、少し前に、英国のブラウン首相のi-Podの中身が暴露されていたけれど、日本でも政治家や選挙候補者のi-Podの中身を比較するという企画を出すメディアはないのか。

或る「万引き」の話

承前*1

「マニュアル」的ということで思い出してしまった。
2002年に東京駅構内のコンビニで、30代の男性が500数十円分のパンやおにぎりを万引きして、これに気づいて彼を追跡したコンビニ店長が逆にナイフで刺殺されるという事件があった。その事件についての橋本治のエッセイに対する金井美恵子先生の突っ込み。『目白雑録』*2から


橋本治が〈「五百円ばかりのことで人が殺せるのか」と驚く〉のは当然のことで、この事件の犯人が警察に出頭した経緯を伝えるテレビのニュースでは「五百円殺人」という、ショッキングなようでもあり滑稽なようでもあるキャプションを使っていたのと同様の常識人的な感覚なのだろうが、私はこのニュースを見ていて、五百円くらいのパンだかおにぎりを万引きされたくらいで、何百メートルも「万引き犯」を追いかける店長というものがいる、ということに、変わってるよ、と驚いたのだった。
ニュース番組制作者にも、同じように感じた人間がいたらしく、そのコンビニエンスショップでは、以前商品のパンに針を刺した六十代のホームレスの女性が警察に逮捕されたことがあり、ホームレスの女性が店長に万引きの現場を見つかって厳しく叱責されたのを恨んでの犯行だった、という情報を伝えていて、さらに殺された店長の元警察官の父親が、息子は正しいことをしたのだ、と、そういうタイプの人間を知らないので、なんとも説明のしようのない、淡々として誇らし気な、とても言っておく他ない表情で語る映像も映されていた。
(略)五百円のパンを万引きした男を何百メートルも追いかけた店長に驚いた、というより、いわば、むっとしたのは、パンなんて売れ残ったら捨てる以外ないものじゃないか、という気持だったかもしれないし、パンに針を刺すというホームレスの六十代の女性の幼稚な陰険さには好意は持てないものの、そういった逆恨みを誘うほどの、厳しい叱責を、パンの万引きをした者に加える「正義感」というのは、私にはとても理解しがたい。というのが「五百円殺人」についての第一印象で、万引きをして追われると持っていたナイフで刺してしまう、というタイプの殺人事件は、様々なタイプのアメリカ映画の中で、正義の警官側からも貧困と暴力の関係といった構図の犯人側化からも、よく撮られるエピソードだな、こういうのは当然日本でも増えるだろう、という、実にノーテンキなものであり、だから、橋本治のコラムを読んで、橋本が代表している世間ではこう考えているのか、と、そのズレに、びっくりしたというわけだ。
捕まれば刑務所に入れられる、と思って追いかけてきた相手を刺す、という短絡思考はむろん常識的な思考ではないのだが、それを、〈この問題はどうあっても、「五百円の金はないがナイフはある」と考えていた男の、その意識にあるとしか思えない。/まともな社会人なら、「五百円」程度の金で人は殺せないだろう(略*3)。その金がない自分が情けないと思って、五百円の工面をしようと思うだろう。その工面が出来なくて盗みに走ったのなら、それが露見した瞬間に「恥ずかしい」と思うだろう。だから、たとえ逃げたとして、追ってくる相手は殺さないだろう。(中略)*4ナイフというものを、まるで「私製のクレジット・カード」のように行使した。「ナイフがあれば、五百円の金がなくても社会生活が送れる」とでも考えていたのかのようだ〉と分析(?)し、さらに続けて、〈その程度の金がないというのは、人の命を奪うにたる「切実さ」にはなら〉ず、それは「社会人」にとって「死にたくなるほどの恥ずかしさ」でしかなく、〈どうしてこの程度の人間が、「社会人」として生きて来られたのかを考えて、それを放置して来た日本社会の愚かしさを思〉ってしまうのにいたって、桃尻娘がなんで村上龍にヘンシンするのだ?*5 と唖然としたのであった。(pp.75-78)
目白雑録 (朝日文庫 か 30-2)

目白雑録 (朝日文庫 か 30-2)

ところで、万引きを店員が追いかけるという場面は2回ほど目撃したことがある。そのうち1度は銀座のプランタンの裏辺り。それはとても楽しい瞬間であった。街の空気が一変し、店員と一緒になって走り出す奴、(私みたいに)呆然と眺める奴が出てきて(さすがに、犯人を庇おうという奴はいなかったが)。この面白さは何かということをいうためには、〈走る〉ことについての人間学的考察を経由しなければならないだろう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090814/1250268102

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081203/1228280406

*3:引用者による省略。略した部分は金井先生によるコメント。

*4:金井先生による省略。

*5:太字は原文。

アルツハイマーのクスリ

承前*1

教養としての「死」を考える (新書y)

教養としての「死」を考える (新書y)

ドラッグ問題に引っかけて、鷲田清一『教養としての「死」を考える』から;


いま生命科学は脳や遺伝子などの機能解明に力が注がれていて、その成果は脳や老化をコントロールする技術にまで利用されかねない勢いがあります。
アルツハイマー痴呆症のメカニズムなどは、近い将来に解明されると期待されていますが、そうなれば脳神経の働きを改善する医薬品の開発が進められるでしょうし、そこまでいけば、記憶力や思考力を強化する医薬品の開発まではほんの一歩という距離でしょう。記憶力が減退した企業戦士が街角でドリンク剤さながらに服用したり、受験生の母親がスポーツドリンクを与える感覚で、競って息子に勧めるときもくるかもしれません。本来のアルツハイマー治療薬としてではなく、健康な人たちが自分の欲望を満たすために使用し、ドラッグ漬けの人間が溢れかえる未来図が見えるわけです。それを技術の進歩と簡単にいってしまっていいものかどうか。(p.140)
最初に鷲田先生のこの1節を読んだとき、そうなれば、スポーツにおけるドーピング問題が一般化するということで、大学入試とか司法試験などで、試験後に受験者全員尿検査ということになって、所謂暗記系の試験は社会的に無意味化するんじゃないかと妄想したのだった。
アルツハイマー」については、小澤勲氏の『痴呆を生きるということ』と『認知症とは何か』をマークしておく。
痴呆を生きるということ (岩波新書)

痴呆を生きるということ (岩波新書)

認知症とは何か (岩波新書)

認知症とは何か (岩波新書)

ところで、鷲田さんは「大阪には自分と同じ服装をして同じ顔をしている人に会ったら、翌日に死ぬという迷信があります」といっている(p.159)。これって、雄略天皇葛城山中で一言主に会った話を思い出させないか。

今年の葡萄は甘くない、など

日本では16年ぶりの「冷夏」らしいのだけれど*1、上海では全然そういうことはない。メディアでもかつてない猛暑ということが言われている。颱風も過ぎたというのに、あの台風一過のからっとした感じの天気もなく、じめじめした曇りの日が続いていたのだが、ようやく土曜日の午後になって、快晴という天気が復活した。「冷夏」といえば、昭和最後の夏となった1988年を思い出す。7月に某女性と散歩をしながら空を見上げて、どちらも同時にもう秋の雲だねと呟いた。とにかく、上海は蒸し暑いですよ。
さて、


鄒娟「連日陰雨譲葡萄没有往年甜」『東方早報』2009年8月14日


7月の上海は曇りまたは雨ばっかりで、晴の日が殆どなかったのだが、その影響で、果物特に西瓜と梨の需要が減り、例えば西瓜の値段は20%下がっている。但し、上海特産の桃の売れ行きにはそれほど影響がないという。また、雨の影響によって、秋に収穫される葡萄の糖度が落ち、収穫量も15〜20%減るだろうと言われている。上海における葡萄の産地は、嘉定区の馬陸。

こういうふうに葡萄の甘さの心配をしているというのは、例えば台湾の高雄で颱風による死者が既に500人を超えているということを考えれば、不謹慎といえるかもしれない。

そういえば、静岡県地震が起こったわけだが*2、その12分後に印度でも地震が起きていたという。

松林宗恵

『朝日』の記事;


映画「社長」シリーズ監督、松林宗恵さん死去

2009年8月15日18時37分


 松林 宗恵さん(まつばやし・しゅうえ=映画監督)が15日、心不全で死去、89歳。通夜・葬儀は親族のみで営む。お別れ会を、9月10日午後1時30分から東京都世田谷区成城1の4の1の東宝スタジオ第8ステージで開く。喪主は長男天平(てんぺい)さん。

 52年、「東京のえくぼ」で監督デビュー。「人間魚雷回天」(55年)の無常感をにじませた出撃シーンで高い評価を得る。その後、喜劇「社長三代記」(58年)など「社長」シリーズの中心的監督として、東宝のドル箱路線を支えた。「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(60年)や「連合艦隊」(81年)など、戦争大作の監督としても手腕を発揮した。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0815/TKY200908150191.html

「しゅうえ」という音読みの名前は浄土真宗の僧籍がある故。フィルモグラフィ*1を一瞥して浮かんでくるのは、まあ東宝の黄金時代ということになるのだろう。『朝日』の記事にポートレイトが載っていて、森繁久彌を思い出してしまったが、これは顎髭の爺を見ると反射的に森繁を思い出すという安易な連想にすぎない。東宝の「社長」シリーズといえば、森繁久彌なのだが。それよりも松竹の「開運列車」シリーズを観たいなどと、関係のないことを考える。

Sophia、上智に非ず

The Work of Director Spike Jonze [DVD] [Import]

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http://www.youtube.com/watch?v=PVrA2mtrHUM

ケミカル・ブラザーズの”Electrobank”のPVで体操選手を演じているのはソフィア・コッポラだということに今更ながら気づく。この頃、ソフィア・コッポラスパイク・ジョーンズはまだ結婚も離婚もしていなかったが。