家族でカラオケ、それとも美術館? など

承前*1

耳塚寛明先生らによる「全国学力テスト」の結果分析(についての報道)を巡って、


ところで、「本の読み聞かせ」や「ニュースを話題に」して子どもを教育するにしても生活に余裕がなければ、やりたくても出来ませんよね。年収200万円以下といえば、母子家庭などが多いと思われますが、昼も夜も働いて夕食も一緒に出来ないような家庭では、「心がけ次第」と説教されても何かしらけてしまいますね。母子家庭では極端な例と思われるかもしれませんが、両親がいても共稼ぎ家庭では子どもとかかわる時間はどうしても制限されますね。夫婦共稼ぎは「女性の自己実現」というより「生活が苦しい」からという理由でそうなっている場合が多いですからね。調査を担当された大学の先生は恐らく生まれてお金に不自由のない生活をされてきたのでしょう。「(絵本の読み聞かせなどが)経済格差が招く学力格差を緩和するカギになる」という発言に「持たざる庶民」との生活感覚の落差を感じると言えば言い過ぎでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/i-haruka/20090805/1249459781
また、そのコメント欄に、

Maa-chan 2009/08/06 20:34
 (略)

 記事にもあるように,
・お金がある=学力がある
・それは「小さい頃から絵本の読み聞かせをした」「博物館や美術館に連れて行く」「ニュースや新聞記事について子供と話す」ことができている
 という論理は,どうも教育学者の論理であるようにしか思えませんし,失礼ながら研究としていかがか,という思いもいたします。
 またこの中身だけでは,学校という公教育の全否定につながりかねず,現場の教員の「がんばり」を否定しているようにも思えます。

 ただ,「非科学的」ではありますが,学力が低いお子さんのご家庭をみると,経済的に厳しいと思われるご家庭が少なからずあることは事実です。
 こうしたこども達への支援,という役割を持つ専門職としてスクールソーシャルワーカーが必要,という「我田引水」な論理は成り立つかな,とは思います。
(後略)

親の経済資本の子どもへの影響を緩和する途として、例えば公共図書館の充実とか学童保育の充実といったことがある。ただ、問題が複雑なのは〈文化〉が絡んでいるからだ。「心がけ」の問題では断じてない。家族でカラオケに*2行く文化と家族で美術館に行く文化があって、後者の文化の親の子どもの方が学校文化に適応しやすいということ。私たちがどんな文化を身に着けるのかというのは、経済的階級を含む様々なファクターによって決定されているのであって、そうしようと思い立っても、心がけても、身につくとは限らない*3。また、いくら子どもの学業成績に不利だからといって、その文化を否定できるのかということもある。文化、或いは人間の生は子どもの学業成績の向上という目的に従属するものではないのだ。

さて、


祖母から聞いた話だが、戦時中なにがイヤだったかと言えば、隣組や町内会の縛りがうるさかったこと。なにかと「皇国の臣民たれ」と注意を受けて、どうでもいいことを「銃後の守りがなっとらん」とか評価されたのにうんざりしたらしい。巻き込まれて死ぬ恐怖はもちろんあったが、「割烹着の着方から、ぞうすいにどのぐらい米粒が入っているかまで」 どうでもいいことをいちいち言われたことに、相当腹が立ったようだ。祖母の語った戦争の話といえば、空襲から命からがら逃げたよりは、「仕事もろくにできないくせに、役に付いたら、いきなりえばり出して、お国のためと難癖つけてきた奴ら」がいかに最低だったか。という話の方が印象に残っている。

これは、祖母だけの体験じゃないと思う。昔、NHK朝の連続ドラマを見ていると、戦時中がストーリーの必要上描かれる場合には、よく祖母が言っていたような、隣組や愛国婦人会による非国民血祭りのシーンが出てきた。

例えば、戦地に行く前の学徒出陣の兵士がピアノを弾いていると、そこに婦人会や町内会のオヤジが乱入してきて、「なに、敵性音楽をのんきに演奏しているのだ。戦地では兵隊さんがお国のために汗を流していると言うのに」と吊るし上げる。「いや、これは同盟国のドイツの作曲家、ベートーベンの作品ですが、なにか」と言い返すと、ぐうの音も出ずに退散とかw。

それ以外にも、せめてもと明るい着物をモンペに仕立てて、戦地へ向かう夫を見送りに行った妻が、「華美な服装をして」と吊るし上げ食らうとか。勤労奉仕帰りに、女子学生たちが無事帰れるうれしさに、歌を歌って歩いていたら、突然、オヤジに「非国民め」と罵られたり。
http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20090809/p2

こういう話は、私もよく年寄りから聞かされていた。上の文章で「愛国婦人会」とあるのは多分「国防婦人会」だろう。「愛国婦人会」は既に明治時代から存在する華族夫人を中心とする団体で、大衆性はなく、路地横丁まで浸透するということはなかった(Cf. 藤井忠俊『国防婦人会』)。ジェンダーとか階級(階層)という変数を考慮してみると、上の話も別様に読めるだろう。「「割烹着の着方から、ぞうすいにどのぐらい米粒が入っているかまで」 どうでもいいことをいちいち」文句をつけた人にとっては、「国防婦人会」は姑の監視や束縛を逃れて、堂々と家を出て社会活動する契機だったわけだし、また愛国とか戦争遂行ということを口実として、それまでは対等に口を利くこともできなかっただろう近所の〈奥様〉にタメで口を利き、さらには上から説教することもできるようになったということだ。
国防婦人会―日の丸とカッポウ着 (岩波新書)

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勿論、〈丸山眞男をひっぱたきたい〉的な心情に好意を寄せるつもりはないけれど。