アルツハイマーのクスリ

承前*1

教養としての「死」を考える (新書y)

教養としての「死」を考える (新書y)

ドラッグ問題に引っかけて、鷲田清一『教養としての「死」を考える』から;


いま生命科学は脳や遺伝子などの機能解明に力が注がれていて、その成果は脳や老化をコントロールする技術にまで利用されかねない勢いがあります。
アルツハイマー痴呆症のメカニズムなどは、近い将来に解明されると期待されていますが、そうなれば脳神経の働きを改善する医薬品の開発が進められるでしょうし、そこまでいけば、記憶力や思考力を強化する医薬品の開発まではほんの一歩という距離でしょう。記憶力が減退した企業戦士が街角でドリンク剤さながらに服用したり、受験生の母親がスポーツドリンクを与える感覚で、競って息子に勧めるときもくるかもしれません。本来のアルツハイマー治療薬としてではなく、健康な人たちが自分の欲望を満たすために使用し、ドラッグ漬けの人間が溢れかえる未来図が見えるわけです。それを技術の進歩と簡単にいってしまっていいものかどうか。(p.140)
最初に鷲田先生のこの1節を読んだとき、そうなれば、スポーツにおけるドーピング問題が一般化するということで、大学入試とか司法試験などで、試験後に受験者全員尿検査ということになって、所謂暗記系の試験は社会的に無意味化するんじゃないかと妄想したのだった。
アルツハイマー」については、小澤勲氏の『痴呆を生きるということ』と『認知症とは何か』をマークしておく。
痴呆を生きるということ (岩波新書)

痴呆を生きるということ (岩波新書)

認知症とは何か (岩波新書)

認知症とは何か (岩波新書)

ところで、鷲田さんは「大阪には自分と同じ服装をして同じ顔をしている人に会ったら、翌日に死ぬという迷信があります」といっている(p.159)。これって、雄略天皇葛城山中で一言主に会った話を思い出させないか。