「英雄時代論文」概要

承前*1

石母田正の論文「古代貴族の英雄時代――古事記の一考察」について。但し、ここではオリジナルのテクストよりも、『石母田正 暗黒のなかで目をみひらき』における磯前順一氏の紹介・読解にフォーカスする。


英雄時代論文は、四つの章に「はしがき」「結語」をくわえた、六つの部分より構成されている。まず、「はしがき」においてこの論文の目的と方法論的前提が手辞され、それをうけたかたちで、「第一章 叙事詩と英雄時代」でその根幹をなすヘーゲルの「英雄時代」概念を、美学の次元から歴史概念に転化する手続きがとられる。
第二章と第三相は対をなし、「第二章 日本古代における英雄時代の存在について」において英雄時代が世界史的発展の普遍法則として日本にも存在することが論じられ、ついでに日本の特殊形態が「第三章 英雄時代の特質について」で考察される。
この二つの章が英雄時代そのものを論じたのにたいし、「第四章 古代文学における英雄物語」では、後代の古代貴族が英雄時代をどのように捉えていたのかという見通しが語られる。(pp.169-170)
「英雄時代論文」の「ふたつの基本軸」;

(前略)ひとつは、過去の史実としての英雄時代とその認識所産たる叙事文学の関係性。もうひとつは、世界史の基本法則とその特殊型たる日本の関係性である。石母田はこのふたつの軸を交差させることで、英雄時代および叙事文学における普遍型と特殊型をそれぞれに設定し、天皇制という日本が抱える特殊性の解明を、英雄時代から叙事文学成立期への移行過程に探し求めてゆく。だが、この論理そのものに問題もまた存在していた。(p.170)
「英雄時代」とは何か;

英雄時代とは、「英雄が独立的な個性として行動しながら、しかもその属する社会的集団の典型として現れるような関係」にある時代をさす。それは既存の体制がくずれ、あらたな秩序がいまだ確立していない過渡期に、通時的かつ汎世界的にしばしば見られる現象であるという。
ことに、原始社会から古代国家成立への移行期は、英雄が「民族精神の全世界観、時代および国民の状態の全体」を体現しえたという高い評価が下される。(略)石母田はこの英雄時代が日本にも存在したのだと主張することで、かつては日本にも個人が国家的権威に依存することなく、主体性をもって活躍した時代があったと言おうとしたのである。
石母田は、英雄の特質すなわち主体性の内実を個性と民族精神に求めたが、それはいずれもヘーゲルの『美学講義』によるものであった。(略)その論じ方は別として、東大西洋哲学科時代に石母田が桑木巌翼から学んだのがヘーゲル哲学であった*2。この場合、個性とは「機構や法によって媒介されない直接的人的な権威」であり、「特別な意志、卓越した偉大さ、ならびに性格の影響力によって彼が生活している現実の世界の先頭に立っているような個性」を意味する。
「英雄時代の特質は何よりもまず動揺しつつある不安定、形成しつつある矛盾性、底から生まれる混沌」にあり、そこでは個人の力と勇気のみが英雄とそこにしたがう者の生命や財産を守るとされるのだ。一方、国家機構や法は「外部の独立的な体制として個性に対立する」ものとして斥けられる。国家や法は抽象性と一般性を本質とするため、人間に自分の力で思考することを放棄させ、既成の権威へ盲従する姿勢を生み出す。
そこで実現される個性は欲望の放縦さなどではなく、個性に妥当性を与える根拠に裏打ちされたものとされる。(pp.170-172)
石母田は(主に「第二章 日本古代における英雄時代の存在について」において)「英雄時代の存在をどのように証明しているのであろうか」;

私たち後代の人間が英雄時代を論じることができるのは、それを記録した叙事文学なるテクストが残されているためである。叙事文学とは、意志し行動する個性をもつ英雄が社会的諸事件を体験することで展開される物語の形式を指す。古代の叙事文学は「国民の素朴な意識をはじめて詩の形で表現する」ものとして、各民族の形成過程が記述されているという。日本の場合、それにあたるのが『古事記』と『日本書紀』とされる。
ところが、記紀に書かれているのは天皇の事跡ばかりで、天皇家の歴史が日本の歴史そのものであるかのような印象をあたえる。その典型的人物が、石母田によれば「専制的君主」たる神武天皇である。記紀における神武天皇は「政治的理念の実体化した抽象的存在」、すなわち国家的理念の従属物と化しているため、自らの意志で行動する個性がみられないという。
石母田にとって国家とは画一的な行動のみを想定するもので、英雄がとるような状況に応じた臨機応変さを容認することはできないとされる。ここでいう政治的理念とは、記紀の説く、皇室が日本を統治すべしという理念を指している。このような性質をもつ記紀に」たいして、石母田は「真実の歴史は記紀の語るところとはちがったもっときびしい、もっと壮大な歴史の体験があった」と提言する。記紀というテクストは叙事詩的独立性をまったく奪われたものに過ぎず、本来の歴史は天皇制が成立するなかで抑圧されて書き換えられてしまったというのだ。彼の言う本来の歴史とは人民の歴史ということである。(略)
記紀そのものは天皇制国家の産物だが、その内部には隠蔽された英雄時代の記憶が潜むというのだ。そして歌謡群こそが、その痕跡を示すものと考えられた。記紀には本文の散文とそこに挿入された歌謡という二つの文学形式が存在するわけだが、石母田によれば両者はもともと成立時期を異にする。すなわち、散文は天皇制国家の成立期に、歌謡は英雄時代に作られたのだという。
しかし、いずれの論拠も石母田の狙いとは異なって、英雄時代の存在を史料によって証明したことにはなっていない。彼が現実にとった論法は、史料不足をおぎなうために英雄時代の概念を普遍的事実とみなし、史料の隙間に挿入していくというものであった。当時の唯物史観では「世界史の基本法則」などに典型的に見られるごとく、個々の出来事だけでなく、理論もそれが妥当であれば実体としての事実性をもちうると考えられていた。
たしかに、歴史研究はひとつの可能態を提示する行為であるわけだが、史料にもとづいた立論を必須とする以上、つねに歴史現象との照らし合わせのなかでの検証されてゆかねばならない。解釈前提が史料不足を覆いかくすような論法では十分な説得性をもつとは言えない。(pp.178-180)
さらに続く。