「ブレはない」

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130227/1361925784に対して、


Talpidae*1 2013/02/28 00:53
和辻の全体性=天皇というのはあらかじめ用意された枠組みで、和辻にははずせなかったんだと思います。『日本倫理思想史』もそれを歴史的に明らかにするために無理して書かれている感じがありありかと。改憲論議が出てきた昨今、宮沢俊義はおさらいしておきたいところですね。忘れられている。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130227/1361925784#c1361980400
熊野純彦和辻哲郎』では、「和辻の象徴天皇制擁護論は、戦前以来の和辻の思考の延長上にあ」り、「その点で和辻に、[天皇を巡る]戦後転向は存在しない」(p.201)、「和辻の天皇論に戦前戦後のブレはない」(p.205)としています。熊野氏はTalpidaeさんが参照している『日本倫理思想史』の「原型」となったする『尊皇思想とその伝統』(1943年)を採り上げています(p.201ff.)。曰く、

和辻哲郎によれば、この国の上代のひとびとは、「神」を「不定」のものととらえて、一定のかたちをそなえた、対象的な存在とすることがなかった*2不定な絶対者である神の命令は、しかし特定の存在をとおして、世界に現前する。和辻は、記紀神話にふくまれる、神功皇后新羅遠征の一場面を例として、こう語る。「最初神の命令が発せられる時には、不定の神々の命令として人間に与えられる」。しかし、と和辻はつづける。「命令を発する神は不定であっても、その命令の現われる場所はきわめて特殊に限定せられている」(二八―二九頁)。結論をさきどりして、ひといきに語ってしまうなら、この特殊に限定された「場所」こそが、天皇なのである。(後略)(p.203)
灼いた鹿の骨の罅を占う「太占」が採り上げられ(pp.204-205)、

ヒビのかたちを解釈するのは、祭司である天皇の役割である。祭司=天皇には、けれども、じぶんに都合のよい、恣意的な解釈、「主観的な解釈」はゆるされていない。 太占の結果は「見る者の解釈」に依存しているとはいえ、「その団体の解釈、その団体の意志」が、「見る者に外から威圧を加え」ているからである。そうであるとすると、神意とはすなわち、団体の、共同体の意志にほかならない。――「太占に現われた全体意志を己れの意志として実現せられるのは、祭り事を知ろしめす皇祖神あるいは天皇であった」。とはいえ天皇にとっても、それは「神の意志」であり、「己れの意志」ではない(四三頁)。古代人が天皇を現人神と呼んだのは、このような役割のゆえにである。全体性の体現こそが「神聖性」の根拠だったのである。(p.205)
和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書)

和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書)

ところで気になったのは、和辻哲郎折口信夫の近さと遠さ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/

*2:不定」なものとしての「神」については、例えば山折哲雄『神と仏』とか。

神と仏 (講談社現代新書)

神と仏 (講談社現代新書)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090310/1236658467