能天気に死ぬことの困難?

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100205/1265388202と関係あるか。

河北新報』の記事;


葬式 自分らしく 無宗教葬や家族葬増える 生前に本人が段取りも



 葬儀を無宗教で行う「現代葬」や、参列者を身内など少人数に絞って簡素化する「家族葬」が仙台圏でも広まりつつある。本人が生前に要望を伝え、段取りを打ち合わせるケースも増えてきた。葬儀もお仕着せではなく、自分らしさを演出する時代になりつつある。

 仙台市内の老人ホームに住む70代の女性は3年前、自らの葬儀を生前予約した。子どもはなく、夫も先立ったため、公証人役場で遺言書を作り、親類への財産分与にもめどを付けた。ささやかな仏教葬を望み、参列者もリストアップしたうえで「祭壇は華やかに、たくさんの花で飾ってほしい」と注文している。

<自由な形態に>
 「近年、ご本人が事前に相談に訪れるケースが増え、全体の4割ほどになった」と話すのは、この女性が契約した葬儀社ごんきや(仙台市)の五十嵐守人営業課長(46)。葬儀に関心を持つ人が増えたことで、ピアノや楽器を演奏する音楽葬や、住職を招かず宗教色を排した立食パーティー形式にするなど、従来のしきたりにとらわれない自由な形態が増えてきた。

 通常は菊を飾る祭壇をバラにしたり、趣味のオートバイや魚拓を展示したり、フラダンスの仲間が式の合間に衣装を着て踊ったりと、内容が多彩になっているという。

 仙台市内には現在約35の葬祭会館があり、数十人から数百人規模のホールを備え、さまざまなニーズに応える。マンション住まいも多い仙台圏では、自宅や寺ではなく、会館葬の需要が伸びており、全体の7割以上が利用しているとみられる。

 同市内に「清月記」の名称で七つの斎場を持つすがわら葬儀社(同)は毎月、見学会を開催している。同社の越前善晋さん(36)は「直営の斎場は多様な葬儀をプロデュースできるのが強みで、入念な準備があれば、満足度も高まるはず。急な葬儀に直面して戸惑わないよう、ふだんから関心を持ってほしい」と営業に力を入れる。

<2割が小規模>
 核家族化や地域コミュニティーの希薄化もあり、最近は「家族葬」にも注目が集まる。厳密な定義はないが、出席者を身内や親しい人に絞り、遺族の負担を軽減するのが特徴だ。

 冠婚葬祭の互助会システムをとる平安祭典(同)では、20人ほどの少人数で行う葬儀が全体の2〜3割に増えた。次長の金谷幸尚さん(45)は「今は病院や施設で亡くなる方が圧倒的に多く、地域とのつながりが薄れている。『家族に面倒を掛けたくない』と、ご本人が小規模の葬儀を望むケースは確実に増えている」と説明する。

 家族葬は安く済むというイメージから、費用面の照会も多いという。金谷さんは「葬式は本来、死を社会に知らしめる儀式で、互助の精神が根底にある。参列者が多いほど香典が増え、結果的に収支が安くなることもある」と、事前に親族で十分話し合っておくことを勧める。


2010年02月19日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/02/20100219t15039.htm

自らの死後の葬られ方にも、自然葬など多様化が見られるので、それに対応して、葬礼の仕方にも個性化が求められるのは当然と言えば当然だとも言える。上の記事は仙台についてということなのだが、仙台でも旧市街か新興住宅地か農村部かといった地域特性によって事情は違ってくるかとは思うので、そこら辺を掘り下げていればよかったのにとは思う。
別の視点から考えてみる。これまでは、自分が死んだら、わざわざ生前に思い悩むまでもなく、葬式費用さえあれば、住んでいる地域とか家の宗旨とかに従って葬式が執り行われ、墓に葬られるということを自明視することができたといえるだろう。それが、葬式の個性化が広まれば、自らの死後の葬礼や葬られ方も自己の個性の表現として、生前から目的意識的にデザインしなければならなくなるといことだろうか。仏蘭西フランソワ・ミッテラン大統領は生前から自らの葬式における愛人たちの席次を決めていたということなのだが、誰もがそうした配慮をしなければならなくなる? 或いは、能天気に死んでいくことの困難? 
さて、上の記事で、金谷幸尚さん曰く、「葬式は本来、死を社会に知らしめる儀式」。柄谷行人氏が、講談社文庫版の『マルクスその可能性の中心』に収録された武田泰淳論で、葬式に残酷さを感じて、それは宗教の衰退と関係があるのかと一旦は考えたが、葬式は個人に社会的な死をもたらすものなので、残酷さは葬式という制度それ自体がそもそも含んでいるものなのだ云々と書いていたことを思い出した。現代社会に生きる私たちは、心臓が止まった後、医者の死亡診断書によって医学的に死に、役所への死亡届によって法律的・行政的に死に、さらには社会的に死ぬという多重的な死を経験(?)することになる。
マルクスその可能性の中心 (講談社文庫)

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