取り敢えずの直訳

今月の初頭、ツィッターで「フィヒテ」という人名*1を見た。かなりレアなことだ。発したのは大川真氏;

AnnieAreYou「フィヒテの事行(Tathandlung)解説の試み 前半」*2に曰く、


そもそも事行という日本語は全く聞きなれない、今文章を打っていても一発で変換されることはない。それもそのはず、この用語はフィヒテの造語であり、従って日本語に訳した場合も既存の単語ではなく事行という造語が新造される。

原語のTathandlungとは「tat」(事)+「handlung」(活動、行い)という単純な足し算によって作られた言葉であり、日本語訳もこの単純性に従って「事」+「行(い)」で事行となっている。今となっては他にどうしろという感がある。

要するに、直訳ということなのだけど、フィヒテが何故Tathandlungなる言葉を創ったのかということは依然として謎なのだった。「自我」による本源的な自己定立という事態が何故「事行」と呼ばれなければならないのかということも。
40年くらい前に遡るけれど、或る先輩の論文に「事行」という言葉が(フィヒテという名前と関連付けられてはいたけれど)1箇所だけいきなり使われていて、この言葉いったい何なの? と驚いたことがある。「事行」を無視しても論文の論旨は理解可能だったので、そのときは「事行」について敢えて人に尋ねたり調べたりするということはなかった。しばらくして、岩波文庫フィヒテ『全知識学の基礎』が復刊されたのだが、この木村素衛*3の訳文は内容理解以前に日本語として難解だったという印象しかない。それ以来、「事行」は私の意識や記憶の表面からは消えていたのだった。