「暴力」(柄谷行人)

柄谷行人、小嵐九八郎『柄谷行人政治を語る』*1から。
柄谷氏の語り;


暴力革命についていっておくと、市民(ブルジョア)革命はすべて暴力革命でした。なぜなら、その前の体制が暴力的なものだからです。先進国はすべて暴力革命を経てきた。だから、いまも、暴力的な支配体制がある地域で、暴力革命があったとしても、それを非難するのはおこがましい。とはいえ、先進国の人間がそれにあこがれて真似をするのは、ばかばかしい。
僕はたとえば、デモで警官と衝突したり石を投げたりすることなどは、暴力的闘争だとは思いませんね。たんにシンボリックなものにすぎない。アメリカのでもでも、それはありますよ。たとえば、ニューヨークで一〇万人のデモがあれば、必ず警察と衝突して何人かは逮捕されている。しかし、そんな行為は、政府にとって脅威ではない。政府にとって脅威なのは、その背後にある大量のデモですよ。六〇年安保のデモは、連日、何百万もいた。これは脅威です。これがないと、全学連の過激なデモも意味がない。それだけなら、国家にとって脅威ではない。
先に、現在の日本にはデモがない、といいましたけど、その話の続きをします。日本人がデモに行かないということは、大衆社会や消費社会のせいだという人がいるし、また、ネットなどさまざまな政治活動・発言の手段があるという人がいます。しかし、それは一般論であって、日本の状況をとくに説明するものではない。アソシエーションの伝統があるところでは、インターネットはそれを助長するように機能する可能性があります。しかし、日本のようなところでは、インターネットは「原子化する個人」のタイプを増大させるだけです。(pp.154-155)

匿名で意見を述べる人は、現実に他者と接触しません。一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことは注意すべきです。だから、ここから出てくるのは、政治的にはファシズムです。しかし、それは当たり前なのだから、ほうっておくほかない。2チャンネル(sic.)で、人を説得しようなどとしてはいけない。場所あるいは構造が、主体をつくるのです。その証拠に、匿名ではない状態におかれると、人はただちに意見を変えます。
だから、日本では、デモは革命のために必要だというようなものではない。とりあえず、デモが存在することが大事なのです。しかし、そのためには、アソシエーションがなければならない。昔、デモがあったのは、結局、労働組合があったからですよ。安保闘争の時、デモに対して日当が払われているという中傷的な宣伝がなされたけど、あれは組合が毎月積み立てたものですね。休日でない日に労働者がデモをすれば、どうなるか。賃金カットに決まっています。だから、前もって積み立てておいた。そういう準備をした集団が核になっていないと、デモはできません。学生だけのデモになってしまう。
だから、アソシエーションを創ること。それがとくに日本では大事なんだと思います。個人(単独者)はその中で鍛えられるのです。日本ではもう共同体がないのだから、もうそれを恐れる必要がない。自発的に創ればよいわけです。多くの国ではしういかないですよ、部族が強いし、宗派も強い。エスニック組織も強い。それらが国家よりも強くなっている。ネーションができないほどです。逆に、日本では、もっと「社会」を強くする必要がありますね。そして、それは不可能ではない、と思います。(pp.156-157)