カトリックと「実定法」(小川国夫)

宗教論争

宗教論争

吉本隆明と小川国夫の対談「生死・浄土・終末」*1 (in 『宗教論争』)における小川国夫の発言;


(前略)実定法というものがありますよね。判例というものを積み重ねていって……。このへんがおちつくところであろう、というように。あれは時が変われば変わるわけです。判例というのはさらに積み重なっていくわけだから、そういうふうにものごとをある意味では流動的に考えていくのがカトリックだと思うんです。つまり、いろいろ宗教的なことに没頭して一生をすごしたというような人の、多勢の体験を積み重ねていって、煩悩の世界にも善悪をきめるわけですよ。これはまあ根本的にいえば便宜的なものですよね。何が善であって……何が善であるというよりは何はしてよろしいということです。何からさきは崖みたいなもので危険であるというわけですね。そういうことを経験的に積み重ねていって、その過程ではいろいろすったもんだもあり、宗教戦争みたいなものが起こって、時にはまずいことになってしまい、宗教家にはあるまじき人殺しをやったりしているわけです。あれもしさいに調べればむずかしい問題もあるでしょうが、大勢としては回避したかったと思うんですよ。だけれども、情勢のおもむくところ回避できなかったということが流血の結果になるわけです。そういう経験の堆積である、と。
まあ、そういう考えかたはヨーロッパ人はもちろん日本人もだいたい持っていると思うんです。だからカトリックのもともとの考えかたは、キリスト教にわりと顕著ですが、まがりなりにも、宗教的な社会をつくりたいということで、カトリックの人はみんなそこへ考えがいっているようですね。で、いま親鸞のお話をうかがっていると、へたをするとインテリの個人主義にいってしまう危険をもっている教えだと思うんです。釈迦の願いと自分の動機が直結しているんだというような親鸞の意識なわけですが、親鸞が出てきた必然のなかには、社会とか民族とかの共同体の培養池のようなものがあるはずなんで、簡単に個人主義と結びつけてしまうと、親鸞の絞りかすだけをもらったということになる危険があるようなきがするんです。やはり歴史が問題なんでしょう。(pp.128-129)
これが法律学的に妥当なものなのかどうかはわからない。
また、親鸞を巡る「インテリの個人主義」に関しては、取り敢えず(例えば)山折哲雄『悪と往生 親鸞を裏切る『歎異抄』』をマークしておく。
悪と往生―親鸞を裏切る『歎異抄』 (中公新書)

悪と往生―親鸞を裏切る『歎異抄』 (中公新書)