神の姿を巡ってちょっと

http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20090308/p1


川瀬さんが要約した薗田稔先生*1の話。例えば、


神は姿を見せず基本的には「隠れている存在(だから依代が必要)」。だから、仏像も本来なら観想する対象であり理想像であるはずなのに、神と同様に人々の目から隠され、「秘仏」となっていったのではないか(特に平安以降)。
そもそも〈神道〉的な神*2は不可視的な存在で、仏像の影響を受けて神像が作られるようになったというのは、例えば山折哲雄先生の『神と仏』とかでも説かれているとおりなのだが、興味深い話だ。ただ、「秘仏」の場合は「ご開帳」との関連で考えるべきなのではないかとも思う。日常的に秘匿されているからこそ、「ご開帳」の意味が高まる*3。また、これを読んで思い出したのは、一方では日本の宗教において神仏が文字(名前)にまで縮減される傾向があること。これは佛教においては日蓮の文字曼陀羅に表れているだろうし、神道的な文脈においても紙に「天照皇太神」とか「鹿島大明神」という神名を書き記し、掲示するだけで、神が臨在しているのと同等に扱われる。その一方では、特に中世の日本人は肖像画に敏感であった。ソースは失念してしまったのだが、中世において、或る真宗の僧が親鸞聖人の肖像の前で議論していて、論破された僧が祖師の目の前で議論に負けた恥ずかしさからその場で自殺してしまい、以後親鸞聖人の肖像の前では議論を行わなくなったという。もしかして、薗田先生の仰有る「秘仏」の誕生と似絵という高僧の写実的な肖像画の登場というのはパラレルなのか。
神と仏 (講談社現代新書)

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さて、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090226/1235654996に関連して、http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20090226/p2。これについては、その通りというしかない。また、「虎哲」さんという方のコメントで、「若い層を取り込むために右翼的な色合いを強めていく方向を選んだのでしょうが、もうひとつ、過去の歴史はともかくとして「普通の神社」化していくという方向性もあるはずで、そのほうが将来的な可能性もあると思うんですが」というのが興味深かった。今はそういう時代なんだ。

*1:薗田稔先生は勿論バーガーの訳者であるとともに、祭りの構造分析の(多分柳川啓一先生と並ぶ)先駆者として重要だということを付け加える。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070605/1181012495

*2:古代に神道神道として成立していたかどうかというのは微妙な問題なので、取り敢えずギメで括っておく。

*3:江戸時代の「ご開帳」については、安藤優一郎『観光都市江戸の誕生』とか。

観光都市 江戸の誕生 (新潮新書)

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See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050717