平野神社

百済王氏など」http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20120212/p1


桓武天皇朝鮮半島との関係を巡っては北野天満宮の西隣にある平野神社*1が重要かと。
岡野友彦『源氏と日本国王』から少しメモ。
中院通秀『十輪院内府記』(文明十三年八月二十五日条)に曰く、「およそ源氏の氏神は、平野社を以て正と為すなり、八幡宮に於いては、清和源氏義家以来の事なり」(p.70に引用)。つまり、「戦国時代においては、武家源氏である清和源氏氏神八幡宮であるのに対し、公家源氏の氏神平野神社と意識されていた」(p.73)。しかし、『延喜式』に曰く、「平野祭は、桓武天皇の後の王(姓を改め臣と為る者もまた同じ)、及び大江・和らの氏人、並びに見参に預かる」。日野兼光『姉言記』(文治四年六月三十日条)に曰く、「平氏、王孫たるに依って平野社以下の事を行ふべきの由、懇望せらると云々」。平安時代に遡ると、平野神社は(桓武平氏を含む)「王孫=皇親賜姓氏族全体の氏神であった」(ibid.)。


そんな王氏の氏神としての平野神社は、もともと桓武天皇の母方の祖先神として、天照大神八幡宮に次ぐ「第三の皇祖神」という性格を持っていた。そもそも平野神社の御祭神は、今木神・久度神・古開神・比売神の四柱とされ、このうちの今木神は桓武天皇の母高野新笠の父方の祖神、比売神は彼女の母方の祖神、久度神・古開神はともに朝鮮系の渡来神とされている。(後略)(pp.73-74)

(前略)古代の皇統は、武烈天皇の代と称徳天皇の代の二度、直系相続が断絶している。その際、武烈天皇の後を継いだ継体天皇や、称徳天皇の後を継いだ光仁天皇といった、しばらく皇統から離れていた「王氏」が皇位に即くにあたり、それはいわば「継体王朝」「光仁王朝」ともいうべき新たな皇統が始まるものと意識され、その結果、その新たな皇統の祖先神が、第二、第三の皇祖神として、第一の皇祖神=天照大神を中心とする皇室祭祀に付け加えられていったらしい。とすると、神功皇后応神天皇を御祭神とする八幡宮は、恐らく「継体王朝」によって付け加えられた第二の皇祖神、百済系の渡来神を御祭神とする平野神社は、「光仁桓武王朝」によって付け加えられた第三の皇祖神と考えられよう(略)
以上のことから、平野社もまた八幡宮と同様、本来は皇族の祖先神であったものが、王孫=皇親賜姓氏族全体の氏神として源氏や平氏氏神となり、最終的にはその代表者たる源氏長者によって管理されるようになっていったことが明らかである。(pp.74-75)
源氏と日本国王 (講談社現代新書)

源氏と日本国王 (講談社現代新書)

以前平野神社に行ったときは6月だった。地元では桜の名所として知られているが*2、花見の季節が過ぎて、社域は訪れる人もいなかった。
ところで「継体天皇」について、父系を前提に考えるからややっこしくなるのであって、母系を考慮すれば話はすっきりしてくるということについては、保立道久「奈良時代的王権論」(徐洪興、小島毅、陶徳民、呉震(主編)『東亜的王権與政治思想――儒学文化研究的回顧與展望』*3、p.9)を参照のこと*4