肥後国の話

児玉幸多『佐倉惣五郎*1から。
佐倉惣五郎」は「肥後国」生まれであるという説(設定)。芝居『花雲佐倉曙』における「惣五郎の伯父」「迎然」*2の科白;


(前略)お前方も知ってのとおり、この惣五郎は筑紫生れ、肥後の国、音川家の御領分、高津何某とて親代々の大庄屋、訴えの事で家は闕所。愚僧がためには母方の甥、その縁でこの伯父を尋ね、下総へたどり来たを、寺に置いて世話する内、村の衆になじみがふえ、発明なが耳に入り、養子にくれよとたっての所望、養父惣佐衛門殿は過ぎ行かれ、今では細き煙を立て、身貧にはくらせども、大庄屋の給米で、女房・子を今日まで安楽に養うて来たは、これみな養父惣佐衛門殿の影、百姓衆の助力、多くの人の身代わりに成って死ぬれば、先祖への孝も立ち、又義も立つ道理(Cited in p.26)
また、惣五郎の科白;

(前略)そち*3もかねて知るとおり、もと某は肥後の国熊本領にて五ケ庄の産なりしが、先祖は平家の落人にて、一村残らず無年貢の土地なりしに、時の役人の計いにて、年貢の取立より一揆起り、多勢の難を引きうけて、某一人追放となる。すなわち当村仏頂寺の迎然和尚は、俗縁の伯父になるゆえ、この下総にさまよい来て、不思議の縁でこの家へ入聟。舅殿も世を去って、名主の役儀も相続すれば、星霜をいだいて油をしぼり百姓より給金同様の役料を取り、我々夫婦・子供まで安楽にくらすからは、かかる時には肉をさき、骨を粉にくだくとも、ちっともいとわぬかねての覚悟、とはいうものの我とても心にかかる妻子の事(Cited in p.27)
児玉は「肥後五箇庄としたのは、年貢の取立てや百姓一揆を出すために、あたりさわりの少ない地を選んだのではないかと思われる」と述べているが(p.28)、どんなものだろうか?
さて、この「肥後国」生まれの惣五郎という設定は、明治になると、肥後に逆輸入されてしまう;

(前略)明治三十一年、口の宮明神*4の祠官で宗吾教会長の栗原清氏が[熊本県の]五箇庄葉木村に赴いて、東洋救世主佐倉宗吾神霊誕生地という木標を建てた。このことは同氏の『宗吾神霊伝 附五家庄紀行』(明治三十二年刊)にくわしい。それによると五箇庄葉木村の地頭緒方氏の系譜に、桓武天皇二十九代の孫、緒方宗佐衛門実宗の嫡子に、緒方信次郎宗吾*5という人があって、それが宗吾*6であるという。また仁田尾村(五箇庄内)の地頭左座氏は菅原道真の後裔であるが、その由緒の中に、肥後の住人杉内右衛門という者が阿蘇家より知行を与えられていたが、その百姓二人をいわれなく殺したので、村民が阿蘇へ訴え出ようとした。杉内はヒグリの難所*7で石弓を構えて、二十二人中の二十人を殺したが、二人が逃れて阿蘇に訴えた。その一人が葉木信次郎で、これが宗吾の通称だというのである。また椛木村(五箇庄内)地頭の弟駿河という者が剃髪して教全といったが、これが下総の下岩橋村の大仏頂寺の光全*8となったというのである。これでは宗吾と光全が伯父・甥という関係は出てこない。かりに葉木信次郎に右のような事実があったとしても、それが惣五郎の前身であるという関係は明らかにされていない。そのほか、葉木村に宗左衛門杉というのがあるが、これは宗吾の父の墓標であるという。これが角田政治氏の『熊本県誌』(大正六年刊)によると、葉木村に宗吾杉と称する老杉が数株あって、宗吾が植えたものだとされている。また義雲祠という宗吾の廟もある。これは栗原氏よりあとになってできたもので、栗原氏の紀行文には宗吾杉も出ていない。栗原氏は旧佐倉藩士で、惣五郎の遺蹟顕彰に努めた人で、将門山から出た白骨を惣五郎のものであることなどを主張したりしたが、その仕事には牽強付会の嫌いがある(後略)(pp.28-30)
惣五郎=余所者説はほかにもある;

(前略)惣五郎は播州兵庫県加古郡小山村の人で、俗縁の伯父が大仏頂寺の就職であったので、その縁で食客になっていた。それが木内惣右衛門の婿になったのであるという説もある。また台方村(千葉県印旛郡*9の名主であった鈴木氏が惣五郎遺愛の刀というものを宗吾霊堂に寄進しているが、その説明文によると、惣五郎の生国は不明で、堤防工事の人夫としてきて、鈴木家に数年間寄食してその家人となり、木内家に養子に行ったものであるという。これに似たものには、印旛郡吉高村*10の富井清左衛門の家でわらじを脱いだという説と、清左衛門の弟だという説とある。そして、公津村の名主理兵衛の婿になったであるという。吉高村の迎福寺*11過去帳には公津村の惣五郎の戒名があって、その伝説を簡単に否定しにくい。(後略)(pp.30-31)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/05/03/153002 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/05/09/103908

*2:「光全」という表記もあり。

*3:惣五郎の女房を指す。

*4:See eg. 「大佐倉将門口ノ宮神社|佐倉市大佐倉の神社」https://tesshow.jp/chiba/sakura/shrine_osakra_masa.html

*5:「そうご」ではなく、「むねよし」。

*6:佐倉惣五郎」のこと。

*7:

*8:これまでの表記では「迎然」。

*9:現在は成田市成田市台方。See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131101/1383315848 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170407/1491538185

*10:現在の印西市吉高。See rg. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%AB%98_(%E5%8D%B0%E8%A5%BF%E5%B8%82) 印西市環境経済部経済振興課プロモーション推進室「吉高の大桜」https://www.city.inzai.lg.jp/0000001355.html 「吉高城」http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/joukan-tiba/yositaka-jou-inba-tiba/yositaka-jou-inba-tiba.html 三諸(みもろ)「吉高宗像神社」https://ameblo.jp/unonosarara0206/entry-12677114462.html

*11:http://www.koufukuji.jp/