ここにも「松虫」

児玉幸多『佐倉惣五郎』(1958)によると、所謂「惣五郎」伝説*1には、


地蔵堂通夜物語』
『堀田騒動記』(『佐倉騒動記』)
『佐倉義民伝』


という3つの「形式」があるという(p.6ff.)。
『佐倉義民伝』では、「惣五郎」の「先祖は花井権太夫という北面の武士で、朱雀院の皇女松虫姫が悪疾(ハンセン病)があって下総国に配流されたときに、それに従って下ってきたもので、姫がなくなってから岩橋村(印旛郡酒々井町)に土着したのだ」としている(p.11)。実はこの近く(現在の印西市松虫)には「松虫姫」伝説というのがあり、「松虫寺」や「松虫姫神社」というのも現存している。「癩を病んだ聖武天皇の皇女・松虫姫(不破内親王)が薬師如来像を求めて、わざわざ平城京から行基とともにやって来て、快癒した」という伝説*2。朱雀院は聖武天皇から200年近く後の平安時代中期の天皇下総国との関りといえば、その治世中に平将門が叛乱を起こしている。そして、伝承によれば、成田山新勝寺の創建にも関与している。Wikipedia平将門」の項に曰く、


千葉県成田市成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正が、京の高雄山(神護寺護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年(940年)海路にて上総国尾垂浜に上陸、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったのを、開山起源に持つ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80 Cited in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/03/023825
なお、「北面の武士」というのは白河院のときに創設された、上皇の仙洞御所を警護するための部隊なので、朱雀院の時代には当然ながら存在していない。
「松虫姫」伝説には、元々聖武の娘というヴァージョンと朱雀の娘というヴァージョンがあったということなのだろうか?
明治21年に刊行された植松金兵衛『佐倉宗吾義民伝』という本では、「松虫姫」伝説はまた別のヴァージョンになっている。

(前略)公家の息女の松虫が京都の人高間左門と通じたために、父に逐われて印旛郡松虫村にきたとき一子を生んで病死をした。左門がその子を将門山の松の下に捨て去ったのを、上岩橋村の名主惣左衛門が拾って子としたのが惣五郎であるという。(後略)(p.25)
ここでは、時代が一挙に下って、江戸時代の話になっており、また「癩」という要素が消えている。