佐倉惣五郎もいるよ

山本太郎の軽挙妄動を持ち上げる大馬鹿者・田中龍作に怒り心頭に発する」http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20131101/1383262761


山本太郎参議院議員*1園遊会にて天皇に「手紙」を手渡した*2。それを、田中龍作*3が「平成の田中正造」と持ち上げている*4田中正造が生きた大日本帝国憲法下の日本と日本国憲法象徴天皇制)下の日本ではそもそも事情が違う*5。それにしても、こうしたことというのは変わり者による余興として笑いのうちに事を収めるのが大人の対応というべきであって、それをマジになって山本太郎を処分しようと策動するのは反動的である以前に端的に野暮であろう。また自民党筋が山本太郎を論うのなら、それは笑止千万といえる。だって、何十年にも亙って天皇の政治利用を行ってきたわけだから。「山本の軽挙妄動を天にも届かんばかりに持ち上げる田中龍作のような人間こそ、山本太郎の百倍も千倍も罪深いと思う」ということだが、山本を論って「処分」を画策する奴らは田中龍作の「百倍も千倍も罪深いと思う」。
それはそうと、園遊会に出席していた長嶋茂雄には、直訴といえば佐倉惣五郎でしょと郷土愛を発揮していただきたかったよ。私の世代の千葉県の子どもは小学校時代に一度は鳴鐘山東勝寺(宗吾霊堂*6に遠足に行っている筈だ。郷土の英雄として教育されてきたわけだが、実際のところ、「佐倉惣五郎」の話は9割がたフィクションであるようなのだ。例えば、保坂智「義民の世界 佐倉惣五郎伝説」*7に曰く、


惣五郎一揆を証明しうる史料はない。
彼が行ったとされる将軍直訴の年代も、いくつかの説がある。
ただ公津台方(こうづだいかた)村に惣五郎という百姓がいたことは、地押(じおし)帳、名寄(なよせ)帳の記載から確かである。
この惣五郎が藩と公事(くじ:訴訟)して破れ、恨みを残して処刑されたこと、その惣五郎の霊が祟りを起こし、堀田氏を滅ぼしたことがあり、人々は彼の霊を鎮めるために将門山(まさかどやま)に祀ったという話が、公津村を中心に佐倉領内の人々に伝えられていった。

宝暦二(1752)年は惣五郎の百周忌にあたる。
延享三(1746)年、山形から入封した堀田正亮(正信の弟正俊の家系)は、惣五郎を顕彰するために口の明神を遷宮し、涼風道閑居士と謚した。
藩が認めた惣五郎の話は、十八世紀後半に一挙に体裁を整えた。
地蔵堂通夜物語』・『堀田騒動記』という惣五郎物語が完成した。
この物語は、苛政→門訴(もんそ)→老中駕籠(かご)訴→将軍直訴→処刑→怨霊という筋を持ち、化政期から幕末にかけて盛んに筆写された。
決定的だったのが幕末の嘉永4年に初演された歌舞伎『東山桜荘子』である。さらに、

歌舞伎の成功により講談や浪花節などでも惣五郎物語が取りあげられ、各地で物語が写本された。
幕末から明治初年の一揆では、その組織化に惣五郎物語が取り入れられることもあった。
自由民権家は惣五郎を民権の先駆者としてとらえ、その偉業を受け継ごうとした。
惣五郎物語は数多く出版され、日本の代表的な物語として外国語に翻訳されたりした。
東勝寺宗吾霊堂として多くの信者を集め、全国に惣五郎を祀る神社などが建立された。
保坂智氏には、「百姓一揆−−その虚像と実像」(in 辻達也編『日本の近世10 近代への胎動』中央公論社、1993、pp.167-228)というテクストあり。これは、私たちが持つ江戸時代の「百姓一揆像」、つまり「越訴・義民物語タイプのイメージ」と「竹槍蓆旗・武装蜂起タイプのイメージ」(p.168)を相対化することを目的としている。「私たちが真に百姓一揆を理解しようとするならば、自由民権期に確立した、この義民と竹槍蓆旗論から解放される必要があるのである」(p.222)。この中では、「佐倉惣五郎」伝説の構築過程が考察され(pp.194-198)、また「義民」伝説の構築を必要とした江戸後期の農村の社会的状況が考察されている(pp.203-207)。
日本の近世 (第10巻) 近代への胎動

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