千葉浪人



佐倉市大佐倉と酒々井町本佐倉に跨る将門山には、戦国時代に千葉氏が築いた本佐倉城があった。江戸時代に進駐軍として佐倉にやってきた土井家や堀田家にとっては、この大佐倉一帯というのは戦国或いはそれ以前に遡るかも知れない旧時代を象徴するような場所だったのだ。佐倉惣五郎伝説もそのようなトポスにおいて生成されたことになる。
と書いた。
さて、児玉幸多『佐倉惣五郎*1には、次のように書かれている;

惣五郎の家はどういう家であったかということについて、『地蔵堂通夜物語』には、元来下郎・土民の種ではなく、父は千葉家の浪人で木内宗右衛門平信勝といい、惣五郎はふと公津村*2公津村へ来て、習字や学問の指南などをして金銀は沢山あり、妻も歴々の娘であったが、夫婦ともに仁義・才智にすぐれていたので、村内はもとより近村近郷の者まで尊敬するようになり、名主が若年であったので後見を頼まれたが、やがて名主を頼まれて余儀なく引き受けるようになったとしている。『印旛郡誌』には、千葉重胤*3の家臣に木内源左衛門という者があったが、重胤が亡びたのち、源左衛門はその旧臣とともに印旛沼の開墾を企てたけれど成功しないで、土着して農民となった。惣五郎はその曽孫で慶長十七年に生まれたという説を載せている。(p.24)
また、「『堀田騒動記』およびそれに類する諸書には、[惣五郎が]平親王将門の末葉であるとしている」(p.25)。
惣五郎の出自については、さらにとんでもない説が伝承・流布されていたのだった。