親蘇環境

「「ロシアとウクライナ両方に責任」鈴木宗男が主張(呆)(FNNプライムオンライン)」https://kojitaken.hatenablog.com/entry/2023/04/28/082717


ウクライナに関する鈴木宗男*1の「妄言」を伝えるFNNの報道


「【速報】「ロシアとウクライナ両方に責任」鈴木宗男氏が主張 世界大戦での日本と重ね…」https://www.fnn.jp/articles/-/519838


が引かれている。


そして、「先の大戦でも日本が戦争をしかけたことは事実だ。しかし、日本には日本の言い分があったのではないか」と、ロシアのウクライナ侵攻と、第二次世界大戦の日本を重ねた。


また、「ウクライナ問題が始まってから『停戦』という言葉を使っているのは、鈴木宗男ただ一人だ」とした上で、「日本国民を含めて世界の人は、一日も早く(戦闘を)やめてほしいという思いだ」と述べ、停戦交渉の重要性を強調。


この点についても、大戦を引き合いに、「半年早く日本が降伏していれば、東京空襲も沖縄戦もなかった。広島、長崎に核が落とされることもなかった」と述べ、「日本の経験をウクライナにさせてはいけない」と語った。

ここから読み取れるのは、鈴木宗男ウクライナに要求しているのはたんなる「停戦」ではなく「降伏」だということだ。堪へがたきを堪へ、忍びがたきを忍び。さらに、「降伏」しないなら、原爆を落とされても文句を言うなということ。
さて、

私がまだ松尾匡を支持していた頃に読んだ松尾氏の本に「ソ連を好きな左翼なんていない」という意味の文章が書かれていたと記憶する。

 松尾氏は1964年生まれで私は氏より少し上の1960年代前半生まれ、宮武氏*2。も60年代前半生まれだと思うが、この世代は左翼でもリベラルでもソ連を支持する人は極めて少なかったし、その流れからロシアの最高権力者であるプーチンに好意的な人たちは少ないのではないかと思う。私が中学校や高校の頃にはブレジネフが書記長だったが、ソ連は中国とは仲が悪いしアフガニスタン侵攻をやらかすし、この世代でソ連に関心を持つ人なら誰でもソ連はほぼ12年に一度近隣の社会主義国に軍隊を出していた印象が強いはずだ。1956年にはハンガリー、1968年にはチェコスロバキアに軍隊を送ったことを学んで知っていたところに1981年にはポーランドにも干渉して「やはりほぼ12年おきにソ連はやらかすのか」と思わせた。当時の左翼の政治勢力を見渡しても、ソ連寄りだったのは向坂逸郎社会主義協会系(社会党左派)くらいのもので、共産党新左翼ソ連を激しく嫌っていた。ソ連といえばアメリカと並ぶ「二大核大国」だし、ソ連びいきになる理由などこれっぽっちもなかったのだ。何より、私たちの世代には上の世代から影響された反権威主義の気風がまだ残っていた。

これを読んで思い出したのだけど、私は凄い親蘇聯的な環境で青春時代を過ごしたのだった。私が大学に入る直前に中越戦争(中国のヴェトナム侵略)が勃発したのだった。私が入学した井上円了大学では、民主主義学生同盟(民学同)新時代派という党派が社会学部、経営学部、文学部史学科、文学部国文学科の自治会を押さえ、最大勢力として君臨していた*3。この 民学同というのは1960年代に蘇聯派として日本共産党を追放された志賀義雄の日本のこえと関係する組織で、当然親蘇聯であり、当時の状況では、侵略する側の中国共産党ポル・ポト派を糾弾し、ヴェトナムの防衛戦争を支持していた。私が生涯で最初に目撃した〈内ゲバ〉というのは、毛沢東主義者が 民学同の諸君にかけた襲撃だった。さらに、向坂逸郎の弟子ともいうべき社会主義青年同盟社青同)協会派が文系サークルの集まりである第一文化団体連合(一文連/文連)を牛耳っていて、これが第2勢力だった。何方も「ソ連寄り」だったけれど、民学同と協会派の関係は非常に険悪なものだった。私たちは、そりゃあ正妻と愛人は仲が悪いに決まっているよねと言っていた。こんな環境にいながら、私は別に「ソ連寄り」にはならなかった。また、多くの〈一般学生〉にとっては「ソ連寄り」云々というのは知ったことじゃなかった筈だけど。

しかし、政治に関心を持つようになった頃のソ連の指導者がゴルバチョフだった世代の人たちは、私たちの世代とは少し感覚が違うかもしれない。宮武さんのブログのコメント欄でDD(どっちもどっち)論やら「プーチンの忍耐」に理解を示す論やらを唱える人たちを見ていて、彼らがどの世代に属しているかは知らないが、強い違和感を覚えた次第。
蘇聯と露西亜の関係も複雑なところがあると思う。「リベラル」である人がプーチンに「理解」を示してしまうというのは〈反米〉というバイアス故なのではないかと思ってしまうのだけど、どうなのだろうか。