「親鸞」から外れて

三浦雅士*1「『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』五木寛之著」『毎日新聞』2022年4月2日


三浦氏の注目点は「親鸞」ではない。


平壌で敗戦を迎えた五木少年はソ連軍最悪の戦闘部隊の進駐を見る。捕虜、犯罪者、外国兵などからなる使い捨ての第一千部隊。ある時、その薄汚い連中が隊列も滅茶苦茶なまま合唱を始めた。少年は驚く。
「それはあまりにも人間的で、あまりにも美しい歌声だった。文字どおり心と体が共に震撼したのです。息がとまるような感じでした。まさに愚連隊のようなソ連兵の集団が、黄昏の街をうたいながら通り過ぎていく。それまでバラバラだった歩調が自然に揃いだすのはリズムの魔術でしょうか、/十二歳の私は、ただ呆然とその歌声が通り過ぎていくのを見送って、ソ連兵たちの姿が小さくなっていくまで、その場に立ちつくしていました」
恐怖と憎悪の只中から湧き上がる美しい旋律と和声。これがその22年後、共産主義政権下モスクワでジャズを演奏する若者たちと出会う小説を描いた理由だ。問いはいまやさらに深まる。ウクライナ破壊を続けるプーチンもまた人間であるとはどういうことか、と。
共産主義政権下モスクワでジャズを演奏する若者たちと出会う小説」とは五木のデビュー作「さらばモスクワ愚連隊」*2