いい加減な宇宙

そもそもは2021年に放映されたETV特集の「五味太郎はいかが?」が最近再放送された。
その中で、五味太郎*1が、自分が子どもの頃に、夜、星が乱雑に密集している天の川を見上げて、宇宙っていい加減なんだなと安心したという話をした。もし星が方眼紙のように整然と並んでいたら全く違っていただろう*2
ここから、最近久しぶりに再読した佐藤信夫の「隠喩と諷喩の書物」というテクスト*3の或る部分を思い出したのだった。こういう部分;


ルネサンス後期、イタリアの大科学者が、自然という書物は「数学的記号で書かれている」と主張したとき、その意図はもちろん、すでに一度かぎりのかたちで書かれてしまった書物『聖書』の諷喩を通してではなく、またアリストテレス的諷喩を通してでもなく、じかに世界を読みとってやろうという、まことに筋の通ったものであったに相違ない。ついに諷喩的にではなく、《じかに》世界を読むべきときが来た、と信じたのであろう。もちろん、そう信ずるためには、世界そのもののなかにすでに何ごとかが書きこまれているという確信が必要である。
が、じっさいに、じかに自然に書きこまれている記号は数学的というよりもひどく気まぐれな落書きのようなものではなかったか。ありていに言えば、自然はどんな記号でも書かれてはいなかっただろう。けっきょく、自然は数学的記号で書かれているというその大学者の主張は、「自然は数学的記号の諷喩によって読むことができる」ということのきわめてレトリカルな表現にほかならなかったわけで、あたりまえと言えばあたりまえだが、新しい数学的意匠の諷喩を提供することによって近世の科学は成立したのであった*4。(p.132)