今週の #ETV特集 は
— NHK「ETV特集」公式 (@nhk_Etoku) 2023年4月30日
アンコール「#五味太郎はいかが?」
「きんぎょがにげた」「みんなうんち」。自らが感じた“違和感”をもとに絵本を描いてきた五味太郎さん。コロナ禍の2020年、創作現場に初めてカメラを入れた。何を語り、何を描くのか。【2021年2月放送】
5/6(土)23時 #Eテレ #君の声 pic.twitter.com/DTlKas6xBJ
そもそもは2021年に放映されたETV特集の「五味太郎はいかが?」が最近再放送された。
その中で、五味太郎氏*1が、自分が子どもの頃に、夜、星が乱雑に密集している天の川を見上げて、宇宙っていい加減なんだなと安心したという話をした。もし星が方眼紙のように整然と並んでいたら全く違っていただろう*2。
ここから、最近久しぶりに再読した佐藤信夫の「隠喩と諷喩の書物」というテクスト*3の或る部分を思い出したのだった。こういう部分;
ルネサンス後期、イタリアの大科学者が、自然という書物は「数学的記号で書かれている」と主張したとき、その意図はもちろん、すでに一度かぎりのかたちで書かれてしまった書物『聖書』の諷喩を通してではなく、またアリストテレス的諷喩を通してでもなく、じかに世界を読みとってやろうという、まことに筋の通ったものであったに相違ない。ついに諷喩的にではなく、《じかに》世界を読むべきときが来た、と信じたのであろう。もちろん、そう信ずるためには、世界そのもののなかにすでに何ごとかが書きこまれているという確信が必要である。
が、じっさいに、じかに自然に書きこまれている記号は数学的というよりもひどく気まぐれな落書きのようなものではなかったか。ありていに言えば、自然はどんな記号でも書かれてはいなかっただろう。けっきょく、自然は数学的記号で書かれているというその大学者の主張は、「自然は数学的記号の諷喩によって読むことができる」ということのきわめてレトリカルな表現にほかならなかったわけで、あたりまえと言えばあたりまえだが、新しい数学的意匠の諷喩を提供することによって近世の科学は成立したのであった*4。(p.132)
*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20050721 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090514/1242267701 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/01/19/165753
*2:See also カンナ「「五味太郎はいかが?」」http://aoiyugure.blog62.fc2.com/blog-entry-5468.html
*3:In 『叢書 文化の現在10 書物―世界の隠喩』岩波書店、pp.91-137、1981
*4:Cited in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/05/01/161832