平野千果子『人種主義の歴史』*1から。
「人種主義」の定義;
ここで参照されるのはサルトルの『ユダヤ人』である。「ユダヤ人は無前提的に存在するのではなく、反ユダヤ主義という思想がユダヤ人を作り出す」。「人種は所与の存在なのではなく、人種主義が人種を実体化させている」(ibid.)。「人種差別」と「人種主義」;
(前略)人間集団を何らかの基準で分類し、自らと異なる集団の人びとに対して差別的感情をもつ、あるいは差別的言動をとることを人種主義とする。人種主義においては、分類された集団は多くの場合序列化され、基本的には自らを上位に位置づける集団が自らを優遇し、同時に下位とみなされる集団を差別の対象とする。それらの集団の性質は遺伝するとされるので、差別は世代を超えて続いていく。そうして分類された集団が、「人種」として認識されるものである。つまり差別的なまなざしが、逆説的に人種を作り出しているといえる。そうであれば、人種が示すものも、人種の意味も、時代によって変遷しうる。(p.11)
ちなみにレイシズムは「人種差別」とも訳しうる。しかし本書では「人種主義」を使う。人種主義には、単に差別というだけでなく、人間集団の分類によって人種を創出、序列化して、その差別を肯定するもろもろの理屈も含まれると考えるからである。そこには「混血」という単純には分類しがたい存在をどう扱うかという論点も含まれる。
ところで、日本語で「人種主義」という訳語が広まったのは、かなり新しいことのようだ。筆者は一九九〇年代に、レイシズムの訳語として「人種主義」というのは奇妙だと主張する同僚と議論したことを憶えている。フランスのクセジュ文庫の一冊が『人種差別』として一九八八年に日本語に訳出されているが、この書の原題はRacismeである。一九九六年にはアルベール・メンミの書物が『人種差別』として訳出されているが、原題はやはりRacismeである。本文での訳語の選択はともかく、全体を表すタイトルに「人種主義」が採用されていないことには、この語の使われ方が示されているようにも思う。(pp.12-13)