上覚に拠る

承前*1

山田昭全『文覚』では、文覚は隠岐に流されたと『平家物語』に記されていることについて、以下のように言及している;


平家物語』延慶本(巻六末)にこのころの文覚について次のように書いている。将軍源頼家のとりなしによって文覚が佐渡流罪を赦され、都に帰ってくる。高雄*2の荘園二か所が召し上げられていたのでこれを返還してくれと申し出ると、来年返すとの返事。「頼朝からもらった荘園が返せないというのなら、文覚を高雄に安堵しなければよかったのに」と怒り、後鳥羽院を「及杖冠者」とののしった。そのことで公家から幕府に苦情を申し入れると、幕府は「そんなにひどい悪口を言う者は致し方がない。処分はおまかせする」と返事してきた。そこで文覚を隠岐国に流した、という。
赦免に頼家のとりなしがあったというのは疑わしい。流罪先は隠岐国ではなく対馬国が正しい。しかし荘園返還をしぶる後鳥羽院に腹を立てて「及杖冠者」とののしったというのはいかにもありそうな話ではある。「及杖」は正しくは「毬杖」で、木製の球を木槌で打ち合う遊戯。「冠者」は若者を見下して言うことば。「毬杖野郎!」といったところであろう。文覚がそうした罵言を吐いたかどうかはともかくとして、後鳥羽院に対する憎悪は相当に激しいものがあったことはたしかである。延慶本にはこの話のすこし前のところで文覚が後鳥羽院を廃して二の宮(後の後高倉院*3)を擁立しようと画策したために、佐渡に流されたと書いている。実際彼は建久七年(一一九六)の政変のころから反後鳥羽院の姿勢を明確に示しはじめたと考えられるのである。(pp.163-164)
文覚が「隠岐」ではなく「対馬」に流されたとする根拠は、文覚の弟子、上覚の貞応3年(1224年)10月12日付けとされる書状である。曰く、「其後佐土国*4配流、次対馬国配流、終を鎮西に御逝去」(Cited in p.166)。
さて、藤原定家の『明月記』は、「建久七年の政変」によって、

(前略)文覚があれほど苦心して集めた〔神護寺の〕広大な荘園はすべて院の近臣、女房等に分与されたと記している。文覚が身命を賭し、歳月をかけて構築した後白河院御願寺という寺格は、頼朝の死を境にして容赦なく破壊されてしまった。後白河法皇の御手印を戴いた「文覚四十五箇条起請文」という神護寺経営の憲法のもとに、整然と組織された僧団は、みるかげもなく衰微したはずだが、その変容の詳細はたどることができない。(p.146)
これでは、後鳥羽院を恨むのは当然だが、文覚の死後、承久の乱後鳥羽院隠岐に流され、 守貞親王太上天皇治天の君)に就くと、神護寺の所領は悉く恢復されたのだった(p.167)。