よい「バイアス」

大竹文雄*1「人々の「捉え方」変えて経済活性化」『毎日新聞』2022年4月2日


翁邦雄『人の心に働きかける経済政策』という本の書評。


(前略)経済学的には、銀行制度は私たちのちょっとした不安で成立しなくなるような脆弱性をもっている。しかし、銀行取り付けが頻繁には生じないのは、ちょっとしたニュースであれば、大丈夫だろうという正常性バイアスが働いているおかげだと、著者は言う。
災害時に、逃げ遅れる人が出る理由として、この正常性バイアスで説明されることが多い。しかし、ちょっとした情報でパニックになっていると私たちの社会はとても不安定になる。正常性バイアスにもよい面があるのだ。(略)私たちには、さまざまな心理的なバイアスがある。他にも、私たちは損失回避や現在バイアス、社会規範などに影響を受けて意思決定をしている。そのため、論理的には同じことでもどのようにフレーミングするかで私たちの行動が変わる可能性があるのだ。こうした私たちの特性を経済学に取り入れてきた学問が行動経済学*2で、評者の専門分野でもある。本書は、行動経済学の知見を、もっとマクロ経済学政策に活かすべきだと説得的に示している。

日本銀行で長く金融政策の分析に携わってきた著者が最も伝えたいのは、インフレ目標フレーミングの関係だ。原題の主流派経済学では、中央銀行の役割で一番重要なのは機体への働きかけだとされている。一方、米国の中央銀行議長だったグリーンスパンは、人々が物価変動に対して無関心である状態が物価安定だと定義した。私たちが物価について正常性バイアスを保っている状態なのだ。日本では、「異次元緩和」という期待に働きかける政策が採られている。異次元緩和によってマネタリーベースを急増させるという政策は、金融緩和政策ではなく、純粋に期待に働きかける政策だったことを著者は簡潔に説明する。しかし、この政策は失敗したという。それは、一般の人はマネタリーベースという言葉を知らないので、それが倍増したところでインフレ期待には繋がらないためだ。一般の人の心に働きかけるには、賃上げというポジティブなフレーミングを使ったストーリーを用いる必要があったというのが著者の意見だ。