視覚/聴覚

堀江敏幸「嵐の夜に君を思うこと」*1(『戸惑う窓』、pp.7-15)


曰く、


窓。間戸。もうひとつ、『岩波古語辞典』の定義によれば、窓とは《「マ(目)ト(戸)」の意》で、「室外を見、室内に明りや空気をもたらすための小さい口。」となっている。そこにはかならず、「目」の働きが入るのだ。(後略)(p.12)
式子内親王*2の引用(pp.12-13)

みじか夜のまどのくれ竹うちなびきほのかに通ふうたゝねのあき

冬くれば谷の小川のおとたえてみねのあらしぞまどを問ひける

秋の夜のしづかにくらきまどの雨うちなげかれてひましらむなり

まどちかき竹の葉すさぶ風の音にいとゞみじかきうたゝねの夢

『白氏文集』など先行する古典の詩句をたくみに取り込んだこれら数首を抜き出してみて明らかなのは、二首目を除けば、いずれも場面が夜になっていることだ。(略)式子内親王の歌には、「窓」の一語こそあれ、そこに「見る」という積極的な行為がなぜか感じられない。「室外を見ると」という一点においても、窓は心の状態をはっきり表現してしまうために、ちょうどリルケの晩年の詩集『窓』のようにひとつの象徴として作用することがありうるのだが、式子の四首からはそうした問題は削がれているようなのだ。彼女は視覚より聴覚で世界を吸い込んでいく。「窓」はそこで、「見る」「眺める」ものである以上に、「聴く」ためのものだったのではないだろうか。窓を覗くのではなく、窓から見るのでもなく、「窓を聴く」ということだ。(pp.13-14)

(前略)窓とはいったいなんだろうか? 見たり眺めたりするための装置ではなくて、「聴く」、あるいは「聴いてしまう」ものだと説いても、それはとりあえずの回答にすぎない。窓について考えるたびに私は戸惑う。それどころか、とまどう、という音のなかに「まど」の響きを聞いてしまうのだ。戸惑う窓。そう、主導権は窓に渡しておけばいいのである。私が悩むより、窓そのものに悩ませておいた方が、心身の健康にはずっといいだろうから。(pp.14-15)