誰かの死

「エンターテインメントは社会に影響を与えるかどうか」ということが話題になっていたようなのだけど、(そこから脱線した)太田忠司*1のツィートがとても興味深かった。


考えてみれば、「ミステリー」で描かれるのは常に、顔や名前を有する誰かの死なのだった。殺す側、殺人犯も顔や名前を有する誰か、である。つまり、「ミステリー」において起きるのは、顔や名前を有する誰かが顔や名前を有する誰かを殺す、ということだろう。それは、不特定多数をターゲットとする戦争や無差別テロによって惹き起される死の対極にあるといえる。ここで、死を巡る文学のタスクというのも見えてくるのではないか? テロリストや軍によって、また、ジャーナリズムの報道や歴史記述によって、顔や名前を奪われ、数に還元された死から、顔や名前或いは質を復元しようとすること。
さて、李琴峰さん*2曰く、
そういうことなのだろう。ただ、「社会」は実体として実在するものではない。「社会」が実在するのは、当事者の都合によって物象化(reificaiton)という機制を通じてであり、或いは社会学の方法論的要請によって恰も実在するが如く描かれることによって、である。