「エンターテインメントは社会に影響を与えるかどうか」ということが話題になっていたようなのだけど、(そこから脱線した)太田忠司氏*1のツィートがとても興味深かった。
エンターテインメントは社会に影響を与えるかどうかという話題について。
— 太田忠司 (@tadashi_ohta) 2022年1月4日
僕は明確に影響を与えると考えている。むしろ娯楽という形で提供される分、影響力は強い。プロパガンダは娯楽の顔をしてやってくるという。逆もまた真なり。
ミステリは人の死を扱う。それが紙の上のことであっても、作者である僕は人を殺している。その自覚なしに書くことはできない。もちろん僕もあっけなく人が殺されるシーンを書くことはある。でもそれは人の命を軽く扱っているつもりで書いているのではない。
— 太田忠司 (@tadashi_ohta) 2022年1月4日
あっけなく命が奪われるシーンを書くとき、僕は人の命が軽く扱われる理不尽さについて書いているつもりだ。その意識を持てなくなったら、僕はもう人の命を奪う小説は書けない、書いてはいけないと思っている。
— 太田忠司 (@tadashi_ohta) 2022年1月4日
僕がミステリに惹かれている理由のひとつは、それが人の命を特権性のあるものとして扱っているからだ。現実では人間は何の理由もなく死ぬ。でもミステリでは一冊の本になるくらい深く重く扱われる。トリックが用意され動機も必要となる。逆説的な言い方だがミステリほど人の命を貴重に扱う分野はない。
— 太田忠司 (@tadashi_ohta) 2022年1月4日
考えてみれば、「ミステリー」で描かれるのは常に、顔や名前を有する誰かの死なのだった。殺す側、殺人犯も顔や名前を有する誰か、である。つまり、「ミステリー」において起きるのは、顔や名前を有する誰かが顔や名前を有する誰かを殺す、ということだろう。それは、不特定多数をターゲットとする戦争や無差別テロによって惹き起される死の対極にあるといえる。ここで、死を巡る文学のタスクというのも見えてくるのではないか? テロリストや軍によって、また、ジャーナリズムの報道や歴史記述によって、顔や名前を奪われ、数に還元された死から、顔や名前或いは質を復元しようとすること。
さて、李琴峰さん*2曰く、
要するにこういうことだろう。
— 李琴峰|新刊『生を祝う』12/7発売 (@Li_Kotomi) 2022年1月4日
小説家は社会に影響を与える目的で小説を書いているわけではない。だが書く時は、社会に対して否応なく及ぼす影響について考えなければならない。
書き出せば極めて単純なことです。
そういうことなのだろう。ただ、「社会」は実体として実在するものではない。「社会」が実在するのは、当事者の都合によって物象化(reificaiton)という機制を通じてであり、或いは社会学の方法論的要請によって恰も実在するが如く描かれることによって、である。
*1:See eg. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%BF%A0%E5%8F%B8
*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/04/09/062643 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/05/20/091611 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/04/16/134141 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/03/18/101219 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/05/04/094502 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/11/08/081355