「共感」と「習合」

橋爪大三郎*1「異物の排除が進む恐怖」『毎日新聞』2020年11月21日


内田樹『日本習合論』の書評。
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さて、明治の神仏分離令で、神道と仏教が別々にされた。神社の社僧らは《還俗帰農するか、神官に職業替えするか二者択一》を迫られた。千年以上の伝統が一夜で消えた。なぜだれも反対しない? 内田氏はこの謎を追って行く。
そもそも日本は雑種文化なのだった。両立するはずがないものを受容する。やがて化学反応が起こり、異質なものも共存できるようになる。かけ離れた他者の間に共通項がみつかる。それをくり返してきた。内田氏はここに、わが国独自の想像力の源を見る。

共感できる同質な人びとと社会をつくろう、も危険である、レヴィナスの《重要なテーゼ…は「他者との関係は…共感の上に基礎づけられるべきではない」》だ。人間は互いに理解も共感もしにくい。だから最低限のルールだけを守ろう。多様な人間が自分らしく行動し、結果が調和すればよい。そんなやり方を「習合的」という。
この観点から、日本社会の現状を丹念にチェックしていく。若者の行き過ぎた共感文化、農業と市場のミスマッチ。日本的雇用慣行の崩れ。ひきこもりも実は仕事ができること。日本的民主主義の可能性。多様なテーマが「習合的」に論じられている。

内田氏が《この本を書いた動機…は、「恐怖心」》だという。異物を排除し話を簡単にしたがる人びとが、年々増えている恐怖心。民主主義の危機につながる。

「習合」の反対は「純化」。何でも単純にし、異質な要素を排除して効率的にする。対する内田氏は少数派。数十年先の読者に言葉を届ける。(略)《「すごく頭のいい人」は…「頭が大きい」》という。どんな要素も取り込めるからだ。本書は「頭が大きい」内田氏の頭の中身を体感できる本。「純化」好みの多数派の人びとには手に負えない本だ。