「残酷な体験」

昨日は京都アニメーション放火・殺人事件*1から2周年だった。

蓮實重彦『見るレッスン』*2から。


先日の京都アニメーションの放火事件で、現場に詰めかけた人たちが、「京都アニメによって私たちは救われていた」ということを語っていましたが、それは映画を見ることとは違います。映画は「救い」ではない。救いとなる映画はあるかもしれませんが、救いが目的では絶対になくて、映画とは現在という時点をどのように生きるかということを見せたり考えさせたりしてくれるものです。
時には見たくないものを見なければいけないこともある。だから、「救い」という言葉が使われた時にわたくしは無性に腹が立ちました。「救い」を求めて映画を見に行ってはならない。似たようなニュアンスの言葉に「絆」や」「癒し」などもありますが、そんなもののために映画ができたわけではありません。
映画を見る際に重要なのは、自分が異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える、そういう瞬間が必ず映画にはあるはずなのです。今までの自分の価値観とは相容れないものに向かい合わざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。(「はじめに 安心と驚き」、pp.10-11)