「選択と集中」と関係あるか

古寺多見氏のエントリーを通じて*1飯田泰之*2の「政府による「集中と選択」はこんなにも不合理だ」というテクスト*3を読んで、ふむふむと肯けるところが多々あった。
それと関係あるかどうかわからないけれど、白井聡*4が2007年に書いた「言論のエコノミー」(『本』[講談社]371、pp.20-22)というエッセイから引用してみる。蘇聯流の「計画経済」は何故駄目だったのか。


(前略)ソ連の計画経済は、ゴスプラン(国家計画委員会)と呼ばれる役所によって策定され、政府・党の諸機構を通じて実行されていた。いまとなってはこのシステムは非効率・低生産性の代名詞のように思われているが、なぜそうなってしまったのかということを考えると、ここにはなかなか深い問題がある。なぜなら、需要や供給の見込みに基づいて経済運営を計画的に行なうということそれ自体は、資本主義世界における経済主体(個人・家族・企業等)もまた日々行なっている事柄であるからだ。してみれば、各経済主体が各個バラバラに行なっている経済計画をすべて一箇所にまとめて足し合わせれば、最も合理的な計画を策定することが可能なはずである(ちなみに、これが可能か否かをめぐって「社会主義計算論争」と呼ばれる論争が一九二〇年代から三〇年代にかけて西欧で起こった)。少なくとも紙の上では。だが、これはいわゆる机上の空論にすぎなかったようである。さまざまな経済主体によって構成される市場というものは、もっと複雑なものだということが、失敗を通して明らかになったのであった。(p.21)