ウヨは死んでも治らない

白井聡*1「いわゆる「保守派」は、「現実派」ではなく「幼児派」である」http://bylines.news.yahoo.co.jp/shiraisatoshi/20161230-00066045/


奥野誠亮が昨年11月に103歳で死んだのか。知らなかった。知っていたら、拙blogでも当然祝賀記事を書いていた筈だ。
白井氏曰く、


政治家奥野氏は、いわゆる保守派として鳴らした。憲法改正を積極的に唱え、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の初代会長を務めた。国土庁長官の任にあった88年には、日中戦争に関して「あの当時日本に侵略の意図はなかった」との発言により舌禍事件を起こし、辞任に追い込まれている。いわゆる従軍慰安婦問題についても、商行為だったと言い切り、選択的夫婦別姓制度にも反対していた。

氏の経歴は、ひとことで言えば、日本のトップエリートのそれである。また、大戦末期には東京大空襲の現場で避難誘導にあたるなど、大変な修羅場をくぐった人でもある。そうであるがゆえに、いま奥野氏の在りし日の言動を見直してみると、筆者は、そこから受ける一種の「幼さ」の印象に驚きを禁じ得ない。


 奥野氏に代表される保守派の主張はしばしば、戦後希薄化しすぎた日本人の国家意識を適切なレベルまで再建せんとする「現実的」かつ「大人の」思考であると受け止められてきたし、今日その傾向は強まっている。

しかし、こうした考えほど馬鹿げた勘違いはない。どのような証拠を突きつけられても「我が国は決して悪くなかった」と言い募ることとは、幼児的全能感に固執することにほかならないからである。

奥野氏の態度が子供じみたものにすぎないことは、彼が終戦時に内務官僚として大量の公文書の焼却に関わり、そのことを恥じる気配もなかったという事実によって裏書されている。

その意図は、戦争犯罪の証拠を占領軍から隠すことにあった。この行為は、現在も歴史論争を混乱させる要因となっているという意味で禍根を残しているのだが、「奥野的」な保守派的主張ののっけからの破綻を運命づけている。「我が国に正義はあった」と確信するのならば、証拠を焼く必要はなかったはずである。「勝者が敗者の言い分を認めるわけがない」という言い訳は、到底成立し得ない。義を確信するのならば、「不当な罰」を受ける可能性を引き受け、いつの日か義が認められるよう証拠を残すのが当然の行為だったはずである。

そもそも奥野のような輩を「保守」と呼ぶことが間違いだろう。もし自由主義コミュニタリアニズムと対立=対話する政治哲学の一潮流としての保守主義を考えるなら。ただの馬鹿ウヨでいいじゃん。或いは、戦後日本の、大日本帝国の崩壊と東西冷戦の谷間という特殊な時空に咲いたなんちゃって保守。普通は、山口二郎氏が言うように、保守主義者が自由主義者のような「進歩主義者」に対して意地の悪い「冷水」を浴びせることによって、「進歩主義者」は鍛えられてきた*2。しかし、逆の側面もある筈だ。進歩主義者が容赦ない突っ込みを入れて、それに向き合うことによって保守主義も鍛えられる。換言すれば、奥野が100歳を過ぎるまで現役ウヨとして生き延びたことに関しては、奥野と対立してきた筈のかつての所謂革新勢力などの進歩主義者は、奥野はわしが育てた と自慢もとい反省すべきだということだ。